創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御書の話③

前回は「御書は戒壇大御本尊(法体)」の説明というような話をしました。

御書の話②

今回は御書は相互投影して読みましょうという話です。莫迦創価戒壇大御本尊を否定する理由として「御書に大御本尊のことが書いていない」というという基本的なロジックがありますが以前もかいたけど「大御本尊」や「大聖人本仏」という「法体」について直接的に「弘安2年十月十二日の板曼荼羅を出世の本懐とする」とか「日蓮末法の本仏とする」などと書かれた御書はありません。

「大御本尊の事が御書に書いてません」ええ。それが何か?

上記の記事にも書いたように「法体」の関わることは唯受一人・面授口決・血脈相承するのが仏法の基本です。何故ならば不特定多数の者の伝えたら必ず邪義・己義を唱えるものが現れ仏法は消滅するからです。そう今の創価のような人間が現れるからなんですね。それとは別に創価が「大御本尊のことが御書に書いていない」などと主張するのは更にレベルの低い話です。そもそも「御書」とはどのような「書」なのか?そんな基本的なことすら創価罵活動家は分かっていないわけです。こんなこと大聖人仏法を学ぶ人間ならば当たり前のことですが、「御書」とは立正安国論などの一部を除き大多数は日蓮大聖人が門下の弟子・檀那に宛てた書です。門下の人々は老若男女様々です。そして「法門」に対する理解力も一様ではないわけでそうした様々な門下への「書」を集めて編集したのが現在我々が読んでいる「御書」です。つまり御書とは不特定多数に与えられた書ではなく、与えられた門下一人ひとりの状況に合わせて書かれた「対機説法」であり、「隋他意」の説法です。ですから1篇の御書に大聖人仏法の「法門法義」の全てが書かれている訳はないのです。1篇の御書に書かれているのは「法門法義」のごく一部でありとりもなおさずそれは「大御本尊(法体)」の一部分の説明であるということです。

大御本尊のことを数編の御書の御文を挙げて説明したときに、創価莫活動家(多分鯛焼き支部長だっと思うが)が、数編の御書の御文を挙げて説明するのではなくひとつの御文で説明できないはおかしい。みたいなことを言ったけど、それこそ御書の読み方の以前に御書の性質すら理解できていないお莫迦さんなのです。今説明したように1篇の御書には「大御本尊(法体)」に関する一部分の法門・法義しか書かれていないのです。なので御書とは基本的には数編の御書を相互投影してその解釈をするのが当たり前のことであり、法論等で「直接的文言」がないようなテーマについては複数の御書から複数の御文を文証として挙げてそれらを相互投影して文証とするわけです。

複数の御書を相互投影して読み砕けば前回の記事(御書の話②)で書いたように「御書は大御本尊(法体)の説明である」ということが理解できるようになります。そして「御書は大御本尊(法体)」のことが書かれていると分かれば、今度は「大御本尊(法体)」から開いて(開会)して御書を読むことができるのです。これを「教学」と呼ぶのであり、歴史学や文献学で御書の真偽を詮索したりするのは「教学」とは呼ばないのです。もちろんそうした研究をしたい人は結構なことだけど、その研究で仏法の何が分かるのかとかいえば実は何も分からない。その何も分かってない人々が「偽書」だ「大御本尊は偽物だ」と言ってみたところで何の意味も持たないわけです。

創価のような「切文」学習をしても大聖人仏法の法門・法義を知るどころか邪見・己義の原因になりかねません。ましてや「創価教学」では完全に謗法路線まっしぐらです。大御本尊を捨てた創価を容認できる学会員はまさしくこの「創価切文教学」のヤカラでしょう。要するに「教学」を全く持ち合わせていないヤカラということです。「教学」は「信」から始まりますので、このような「イカサマ教学」を教える創価には「信心がない」ということです。

ともあれ御書は相互投影しながら幅広く読まないといけません。できたら全篇読破が望ましいけど大変なので毎日少しずつのんびりと全篇読破に挑戦してみるのがいいと思います。


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