学会活動家が、アンチ学会の人間に向かって言う常套句に
「日顕宗」という言葉がある。
つい先日も、たつやさんなる人が
俺を「日顕宗だ」と発言した。
これは、ネットだけじゃくリアルでも同じで
俺も、地元の組織の人間に
散々「日顕宗」と陰に日向に言われている。
大抵「日顕宗」だの「退転者」だのいう活動家は
対論で分が悪くなると
教学とは全く関係ないことを口走る。
そのひとつが「日顕宗」というキーワードだ。
がしかし、「日顕宗」なる宗派はこの世に存在しない。
「日顕宗」という宗派が存在しているのは「創価村」だけのお話で
世間の一般人に「日顕宗」なんていっても
「はい?」と言われ笑われるだけだ。
で、その証拠として正宗の能化文書の
○本仏大聖人、戒壇の大御本尊、歴代の御法主上人が、その内証において、一体不二の尊体にまします
の一文(しかも切り文)をあげるのだが
これのどこが法主本物論になるのかサッパリわからない。
まづ、第一に正宗に法主本仏論だとか法主絶対論などという教義は存在しない.
そんな指南があったら文証を出してからい言うべきだ。
そして、【内証】において法主と大御本尊と不二なのは当然でしょ。
もし法主の【内証】が違うのであれば、学会にある全ての本尊には
大聖人の魂が存在しない。ということになる。
【内証】が一体であるからこそ、時の法主が書写した本尊が
別体の本尊として成立するのだから。
【内証】においては三宝一体でなければ大聖人仏法は成立しない。
それが日蓮正宗いいか変えれば日興門下の教義である。
■日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(日興上人・御本尊七箇相承)
それを承知の上で学会上層部は故意に【内証】と【外用】を混同させ
学会員にあたかも正宗、就中日顕前法主が「自分は本仏である」といったるかの如く吹き込んだわけだ。
こんな事は少し教学を学習すれば分かることだが
なにせ学会活動家は、学会の言うことばかり鵜呑みにして
自分で、学習・検証しないからウッカリ騙される。
認知性の欠如で一種の病気のようなものだ。
まぁ、それ以外にも「僧俗差別」は謗法だ。
「学会を破門したのは」謗法だ。
「僧侶か贅沢する」のは謗法だ。
なにが何でも宗門を謗法にしたがるが
一体、学会活動家さんたちは
「謗法」という言葉の意味を知っているのか?甚だ疑問だ。
謗法とは、御書に様々書いてあるが基本的には
◆凡そ謗法とは謗仏謗僧なり三宝一体なる故なり(真言諸宗違目)
とあるように三宝を謗ることをいう。
大聖人仏法における三宝一体の「体」とは
いうまでもなく大御本尊だ。
それを信受しないということが謗法なのである。
宗門がいつ大御本尊を信受しないと言ったのか?
おれの記憶が正しければ、そう言っているいるのは創価の方である。
また、謗法とは
◆正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり(顕謗法抄)
とあるように正法(大御本尊)を人に捨てさせるのが謗法ともいわれている。
これまた、俺の記憶では大御本尊を信徒にすてさせたのは創価の方ではないか?
正宗には「日顕教学」はもとより「日寛教学」なるものすら存在しない。
「日寛教学」「日寛教」などというのは身延くらいだ。
自ら「日蓮正宗と関係ない独立した宗教法人だ」と言っている。
ならば正宗のことを日顕宗などと呼ぶべきではなく
自分達が、「創価教」「池田教」を名乗るべきだろう。
誰がどう聞いても、「創価教」「池田教」でしかないだろ。
いつまでも、創価村にしか存在しない「日顕宗」などという宗派を
あたかも世間に存在するかの如く
会員を欺くのはやめたほうが良い。
自分たちが正しいと主張したいなら
堂々を
「俺は創価教の信者である」
「私は池田教を広めてます」と胸を張っていえばよろし。
そして「日顕宗」などと姑息な言葉を使うのでなく
「日蓮正宗」を破折したどうか。
もう、君たちは大聖人仏法の信仰者じゃないんだから
潔くそれを認め、開き直って
それが、学会活動家としての正しい態度だ。
まぁ、創価教学では逆立ちしても
三世永遠に無理な話だが(笑)