昨日のコメントで、「日興遺誡置文」を挙げてコメントしてくれた方がいた。
実は、近いうちに学会の日興遺誡置文の悪用の件を書こうと思っていた矢先で
そのコメントを「うん。うん。」と頷きながら読んだ。
そのコメントより一部抜粋させてもらいますと
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学会員は「日顕宗」の悪口を言う際、すぐ「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(日興遺誡置文・御書1618 ㌻)を持ち出してくる。でも仮に「法主本仏論」のような己義があったとしても、それを理由に法主を否定し、大御本尊を受持しなくていいことにはならない。
そこでは「時の貫首為りと雖も…」について、「『時の貫首』、それぞれの時代の教団の中心者という立場にある者であっても、仏法と異なる自分勝手な義(己義)を立てた場合は、教団としてその己義を用いてはならない、という戒めである」(P306)と講義している。「己義を用いてはならない」のであって、法主をエセよばわりしたり、大御本尊から離れていいという戒めではないわけだ。
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と言う事で、全くこの通りなのだ。
学会が用いる上記の遺誡置文の一文は、その次の一文とセットだ。
◆一、時の貫首爲りと雖も佛法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。①
◆一、衆議爲りと雖も、佛法に相違有らば貫首之を摧くべき事②
このように、この二つの文はセットになっており
全く真逆の事が書かれている。
学会教学は上記の①だけ引用し、
セットである②については全く引用もせず教えもしない。
さて、上記の二つの文には決定的な違いがある。
それは、「法主」が仏法に相違しても「用いて」はならない。のに対し
「法主以外」が仏法に相違したら法主はそれらに人間を「摧かなければならない」という事だ。
この事は、コメントでもいただいたように
「法主」が仏法に相違したとしても、信徒は「用いない」ようにするだけあり
「法主」を「摧く」つまりは「批判」して良いとは言われていない。
逆に、信徒が仏法に相違したならば、
「法主」は「摧く」つまり指導・破折を【しなければならない】のである。
つまり、池田センセや創価患部が法主を批判するのは遺誡置文に反した行為であり
日顕前法主が、池田センセや創価患部を批判するのは遺誡置文にのっとた行為なのである。
「用いない」事と「摧く」事は全く違う。
これを、もしも創価が「僧俗差別」と呼んで非とするなら
創価は日興上人を否定することになる。
これは「僧俗差別」ではなく「僧俗の区別」なのだ。
僧俗の別は大聖人の御書のそこかしこに
「弟子・旦那」との記述があり
大聖人自身が「弟子」(僧)と旦那(在家)に区別している。
どのように区別されているかというと
◆涅槃経に云く「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん」(曾谷入道殿許御書)
と言う区別である。
そうした区別、いわゆる「総・別」「能・所」の立て分けを無視して
「僧俗差別だ」「謗法だ」「己義だ」といって正宗教義を攻撃しているのが今の創価だ。
また、上記の遺誡置文を遵守するならば
正宗が池田センセを除名して学会を破門するのは当然だろう。
法主は謗法者を摧かなければならないのだから。
破門に至るまでもどれだけセンセをはじめとする学会員が
信徒の分際を超えて「法主」を摧いてきたか?
それこそ、日興上人の遺誡に反した己義だろう。
日興上人は信徒が法主を摧いてもヨロシイなどと一言も言ってない。
また、大聖人仏法において初代法主は誰か?
大聖人が初代法主である。
だったら大聖人が仏法に相違したいたら摧くのか?
ああ、そうだった。
学会は大御本尊を捨てたんだったな。
大聖人が仏法に相違したから
大御本尊を捨てたってことか?
それと、日寛上人の一大秘法の本尊義も用いないのも
日寛上人が仏法に相違して己義を言ったからってワケか?
全く、笑っちゃうよ。
話はそれたが、「日興遺誡置文」に違背しているのは
どうみても創価の方だろう。
上記の文以外にも
◆一、義道の落居無くして天臺の學文すべからざる事
◆一、當門流に於ては御鈔を心肝に染め極理を師傳して若し間有らば臺家を聞くべき事
御書も読まず、大聖人仏法の法義も理解していないのに
人間革命だのセンセのスピーチだの学んでする姿は上記の遺誡に違背する。
◆一、論議講説等を好み自餘を交ゆべからざる事
◆一、謗法を呵責せずして遊戯雜談の化儀竝びに外道歌道を好むべからざる事
文証も理証も無く、反創価の人間を貶めることしか言えないバリ活さん
(このブログにもそうしたバリ活さんがきますが)
その姿はまさに上記の遺誡に違背する。
◆一、謗法と同座すべからず、與同罪を恐るべき事。
これは大御本尊を捨てた全学会員に当てはまる。
◆一、御鈔何れも僞書に擬し當門流を毀謗せん者之有るべし。若し加様の悪侶出來せば親近すべからざる事。
最近では、創価教学に合わない御書を偽書という学会員が増えている。
そういう会員は上記の遺誡に違背する
◆一、學問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶ふべからざる事。
はい、これは創価教学を植え付けて自分達の財力・権力を拡大しようとたくらむ
創価の上級幹部達の事だ。
どうですか?
ことごとく日興上人の遺誡置文に見事に違背してるでしょう?
それとも違う言うのでしょうか?
さて、その遺誡置文の最後には
◆右の條目大略此くの如し、萬年救護の爲に二十六箇條を置く。後代の學侶、敢へて疑惑を生ずる事勿れ。此の内一箇條に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず、仍つて定むる所の條條件の如し。
とあります。
つまり、創価は日興上人の末流じゃないのです。
それは、大聖人の末流でも無い。と言う事を意味します。
日興門流じゃない外道が
日興門流である正宗を「日顕宗」と呼んでいる。
憐れと言うか無慚とうかみっともないと言うかそんな気分です。
まぁ、だからこそ、大御本尊を信受しない。
などという大謗法を平気でやれるわけです。
日興門流ではない五老僧の末裔(身延など)にとって
一番目ざわりのが大御本尊だから、それを否定する。
これこそ大聖人の時代からの
謗法・邪宗の人々が言ったりやったりした事です。
学会も情けない邪教団に成り下がったモンです。