創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日興遺誡置文絡みでもうひとつ

先日、「日興遺誡置文」の話をしたので

同じ、「日興遺誡置文」絡みでもうひとつ書いてみようと思う。

先日の置文とならんで、創価教学でよく使うのが

 

■先師の如く予が化儀も聖僧爲る可し。但し時の貫主或は習學の仁に於ては、設ひ一旦のよう犯有りと雖も、衆徒に差置くべき事。

 

この一文だ。

そうか活動会曰く

法主だって女犯を犯すことがあるんだ。

だから絶対じゃないんだ。

そして日顕は女犯を犯したから法主の資格はないんだ。

って感じなんだけど、

そもそも、例の改竄写真に捏造記事を元に言ってるから

「遊蕩坊主」なんていう批判は全く根拠無い中傷に過ぎない。

それに、創価はいつも「僧俗平等」と言ってうるわけだから

仮に、法主が芸者遊びしたところで

とやかく言う事もないだろう。

創価の幹部だって、キャバクラや風俗言ってる奴はたくさんいる。

それどころか組織内での不倫だって珍しくない。

このブログを読んでいる活動家さんだって

ひょっとしたら「ギクッ」とした人もいるんじゃないの?

普段は僧侶も在家も同じだ。と言ってるくせに

そんな時だけ、「僧侶は聖僧であるべし」って言うのはおかしくね?

在家がキャバや風俗行っても仏法に相違しないなら

在家と平等の僧侶だって芸者遊びしたっていいじゃん。

僧侶と在家と同じなのか?

それとも違うのか?

いったいどっちだよ?(笑)

 

それはさて置き、ちゃんと教学の話しよう。

上記の御文の

貫主或は習學の仁に於ては、設ひ一旦のよう犯有りと雖も」

この部分を、創価教学では

貫主【または】貫主以外の僧侶は、一時的に女犯を犯しても云々」と読む。

でも、この読み方は実は間違っている、

この部分は、

貫首は、もしも修学中の僧侶が一時的に女犯を犯したときは・・・」と読むべきである。

つまり、ここで使っている【或いは】という言葉は

「または」という意味でなく「もしかしたら」という意味だ。

だから、「貫首はもしかしたら修学中の僧侶が女犯をおかしたら・・・」と読むのが正解である。

 

その論拠は同じ、日興遺誡置文の中に

 

■謗法を呵責せずして遊戯雜談の化儀竝びに外道歌道を好むべからざる事

 

戯雜談の化儀【竝びに】外道歌道云々とあるように

「または」という意味には【並びに】という言葉を使っている。

なので、貫首【または】修学の僧侶という意味での遺誡ならば当然

 

○「貫主【並びに】習學の仁」と書いたはず

が、実際には「貫主【或は】習學の仁」である。

なので、創価が言う「法主だって女犯を犯す可能性があると日興上人も言っている」

なんて説は全く当てはまらいわけだ。

 

先日も書いたが、

活動家さんの皆さん!

御書は切り文でなく、ちゃんと読みなさいよ。

 

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