創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

指導と指南

昨日書ききれなっかたので

今日は昨日の続きで「指導主義」について

もう少し書こうと思っている。

池田センセをはじめとする

創価幹部の言葉は「指導」だよね。

それに対し、日寛上人をはじめとする

歴代法主の言葉のことは

「指南」と呼ぶ。

この、「指導」と「指南」

ニュアンス的には同じように聞こえるんだけど

全然、違う。

「指南」というのは

指南車が常に南を指している(向いている)ことからきた言葉で、

「常に同じ方向」を指しているのが「指南」

「指導」というのは

「ある方向」に向かって導くこと。

この二つは大きく違う。

「指南」は常に同じ方向を指すが

「指導」は常に同じ方向に導くとは限らない。

「指導」とは「指導者」の「意図」や「考えで」によって

進む方向は変わっていく。

故に、「指南」はブレないが

「指導」はブレる。

その証拠に、破前破後(破門前・破門後)では

池田センセの「指導」は180度変わり

それに合わせて創価の本尊・教義・化義も

戸田時代とは似ても似つかぬものになっている。

「指導主義」というのは「指導者の心一つ」でどうとでも変わってしまう。

社長が変わったら、それまでと全然違う事を言い出す。

それと同じだ。

だから、「指導主義」には

「普遍性」も「永遠性」もない。

対する「指南」は常に同じ方向だ。

大聖人仏法における「南」とは

「大御本尊」である。

創価がどう言おうと、歴代法主

戒壇大御本尊」を指して来たのは事実だ。

日興上人以来それは、全くぶれていない。

正宗が身延と違い本尊に迷わなかったのは

歴代の「指南」があればこそであり

「指南」が「指南」たりえたのは

「唯授一人血脈」故である。

◆此の経は相伝に有らざれば知り難し(一代聖教大意)

創価は否定するかもしれないが

たったの三代目から既に二代会長の言ってることと

真逆の指導をしているところを見れば

いかに不相伝の凡夫に大聖人の仏法が知ることが難しいかよくわかる。

なので誤つことなく大御本尊の方向に指導をするためには

「唯授一人血脈」を認め(信じ)

歴代法主の「指南」に学ばなけれな

本当に会員が幸福になる「指導」はできない。

そのご歴代の中でも最も分かりやすく

また多岐に渡ってご指南をされた日寛上人の言葉を

「時代にそぐわない」などと言って切り捨てる。

日寛上人の「指南」を

池田センセの「指導」と同じだと思っているところが

すでに「信心がない」と言わざるを得ない。

大御本尊の方向を指さない指導は

少なくても「大聖人仏法の指導」とは言わない。

今の創価指導とは

池田センセの池田センセによる池田センセのための言葉にほかならい。

どれだけ池田センセが世間的に立派な人であっても

大聖人仏法の事を全くわかっていない習いそこねの爺さんだ。

◆一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり(草木成仏口決)

もしも、このブログを読んでいる学会員に

少しでも大聖人の仏法を知りたいという心があるのなら

今の、池田センセや創価幹部の本尊義と

日寛上人の本尊義と

どちらが大聖人の真意を汲んでいるか

どちらが日興上人の真意を汲んでいるか

自分で一度精査してみるといい。

その上で池田センセが正しいというならば

それはそれで致し方ないが

創価の指導」が「正しい指南」になっているかどうか?

一度は自分で考えてみるのもいいのではないか?

いずれにせよ、「指導」というのは

必ずじも「正しい方向を指していない」といことは思っていたほうが良い。

そして「指導」というのは「命令」ではないから

必ずしも「指導のとおりやらなくてはいけない」といものでもない。

それも覚えていて欲しい。

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