創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

師匠と親分

学会活動をやっていると一度は聞かされる指導で

部員さんと「親分子分」の関係になってはいけない。とものがある。

俺が創価組織を追放された時も

「あいつは部員さんを子分のようにしている」と散々言われた。

なんでも俺が部員さんに命令している。かのように言われたものだ。

俺の周辺にいたヤツらは本当に幹部の言うこと聞かない

ひとくせもふたくせもあるような部員さんが多くて

そのくせ折伏も新聞も選挙もとびきり結果を出す武闘派だったので

傍からみると反社会的勢力のような

親分子分的な関係に見えたのかもしれない。

ある日某幹部が俺に

「部員さんに命令して言うこと聞かせるようなことはよくない」

と指導をしに来たことがあった。

そこで俺はその幹部に

「あいつらが命令して動くような奴らかどうか自分で命令して確かめたらどうか」

と提案した。

とてもじゃないが「命令」に素直に従うやつらなんてほとんどいない。

仕事でもなんでもそうだかが

「命令に従う」ような人間は何の結果も出せない。

それに、俺には「親分」とか絶対無理。

俺自身が「誰の下にも誰の上にもなりたなく」人間だからね。

まぁ組織に向いてないタイプ。

だから独立して会社をやるしかないわけだ。

さて、創価では「師弟」なんてものを強調する。

「親分」はダメだが「師匠」は推奨。

一体、師匠と親分と何が違うのか?

師匠も親分も弟子や子分を想う気持ちは何も変わらないと思う。

子分を蔑ろにする人間は親分にはなれないわけで

師匠が親分よりも素晴らしいという理由がわからない。

「師弟」も「親分子分」も言い方の違いで

その人間的つながりは変わらないと思う。

ではどこが違うのだろうと考えてみた時に

親分は「その人」につくもので、

師匠とは「自分以外」の何かに導く存在なのかな?と思う。

うまく言えなが、子分は親分そのものを目指すが

弟子は師匠そのものを目指してるのでく

師匠の目指しているところを目指している。

そんな感じだろうか。

創価の指導にも「部員さんを自分に付けるのでなくご本尊・大聖人につける」

といようなものがある。

それを聞いたときにはなるほど。と納得した。

なので俺は御書を中心に大聖人仏法を伝え

部員さんにご本尊・ご本仏を伝えてきた。

大作センセのスピートとか人革の研鑽?なんてほとんどしなかった。

ひたすら御書。

そしてそれが故に創価の活動で皆結果を出すことができた。

それはいまでも同じで、このブログでも

嫌というほど「ご本尊」について書いている。

ところが「部員さんをご本尊へ」という指導が

いつの間にやら「部員さんを池田センセも元へ」

みたいな感じになっていって

非常に違和感を覚えた記憶がある。

池田センセも自ら「師弟の道」を歩むことを奨励し

「師弟」を美化していた。

確かに「師弟」というのは人間しかない崇高な精神であり

それは「美しい」姿であることは否定しない。

「師弟」の姿というのは美しいし、

「師」を持つことができるのは幸せだと思う。

だた仏法においては「師弟」は美しいかもしれないが

必ずしも「正しい」ということはならない。

なぜならば多くの人々が誤った宗教にのめりこむのは

この「師匠」という存在があるからだからだ。

◆宗宗各別に我が経こそすぐれたれ余経は劣れりと云いて我が宗吉と云う事は唯是れ人師の言にて仏説にあらず(法華初心成仏抄)

◆当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思ひ或は法華経に肩を並べて斉しと思ひ或は勝れたり或は劣るなれども機にかなへりと思へり(新池殿御消息)

など、「間違った師匠」と「その弟子」が

仏法を破壊する不幸の原因になっていると

大聖人は繰り返し何度も多くの御書に書かれている。

人として美しいことと、人として正しいことは必ずしも一致しない。

特に仏法においては「間違った師匠とその弟子」

の方が圧倒的に多いのだ。

大聖人仏法において正しい師弟感とは

日有上人の化義抄のご指南に尽きる。曰く

◇手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能よく能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり

つまり先の創価の指導と全く同じことで

師匠とは、根本の師匠(正確には主師親三徳具備のご本仏)

大聖人(大御本尊)に取り次いでくれる人のことだ。

それは、別して言えば唯授一人血脈のご歴代であり

総じて言えば末寺のご住職ということになる。

それ以下の在家は創価学会の名誉会長だろうと

法華講の総講頭だろうとそこまで道案内をする案内人にすぎない。

これは僧俗差別ではなく筋目も問題である。

日興上人は「佐渡国法華講衆御返事」の中で

◇このほうもんは、しでしをたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじほくゑをたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也(佐渡国法華講衆御返事)

と明確にご指南されている。

ともあれ、本来は「師匠」として根本の師匠である

大聖人(大御本尊)へ会員を導くべき者が

こともあろうかその大御本尊を捨てたのである。

大聖人直結などという、御書にもないような「オカルト説法」で

会員を大聖人ではなく「自分」に付けた張本人が大作センセだ。

会員には「自分に付けるな」とかいいながら

結局テメー自身が会員を自分につけているのある。

そんな大作センセを「人生の師匠」と決め

選挙だの新聞啓蒙だの財務だの正宗攻撃だの

ひたすら献身的にしている創価の弟子たちの姿。

ある意味「美しい」よ

でも「正しく」はない。愚かである。

ヤ●ザの親分子分のつながりは美しいと思っても

ヤ●ザになりたい。と思う人は少ないのと同じように

創価の師弟は美しいかもしれないが

そうなりたいと思う人はそうそういないのだ。

もはや仏法の本紀に照らせば大作センセは師匠ではない。

単なる「親分」である。

そして創価は反社会的勢力団体同様

親分・子分の関係の団体なのである。

大作センセの元からその先はどこにも行けない。

ただ大作センセと共にどこまでも行く以外に道はない。

それが無間地獄であるにも関わらずに。

果たしてそれが自分や家族、

祖先・子孫にとって美しいものなのか?

俺には到底そうは思えない。

「美しいが正しくない」のがいいのか?

「美しくないが正しい」方がいいか?

それはその人の考え方次第ではあるが

大聖人を求めぬく真実の師弟の道をいくのならば

一人の信仰者として

「美しく。正しい。」道を歩めるんじゃないか?

俺はそうありたいと思っているし

大聖人をご本仏と思っている人たちにも

そうであってほしいと願っている。


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