創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

祈り方

男子部時代から、そしていまでも

「どうやって祈ってるのか」とよく聞かれる。

先日祈祷抄について書いたので

その続で今日はどうやって祈っているか?

それを書いてみようと思う。

今日書くのは個人の祈り方なので

当然絶対でもないし、強制することじゃない

なので、軽~く読み流してくれればと思っている。

祈り方については、様々な人が様々に口にしている。

誓願の題目をあげる」

「具体的な目標を立てて唱題する」

「自分のことだけだなく周りのことも祈る」

などなど。

まぁ、人それぞれなのでどうこう言うつもりはない。

ただ、俺の実感としては

実際に本当に苦しい・辛い時に

そんな風に祈ったことはない。

ていうか、そんな風に祈る余裕などない。

人が一番真剣に祈るのは、

楽しい時ではなく、苦しく辛い時だと思う。

そんな時に、

広宣流布にお役に立ちます」とか

「具体的にこうなりたいです」とか

「私と同じ苦しんでいる人も救ってください」

なんてことを、いちいち祈りの中に入れられない。

そういったことを入れられるのは

まだ余裕がある時だ。

本当に苦しい時は、願うだけで誓いなんて立てられない。

本当に苦しい時は、具体的な目標すらわからない。

本当に苦しい時は、他人のことまで思いやる余裕はない。

そうじゃないだろうか?

だから、本当に苦しい時には

誓願もしなくていい。

目標なんてなくていい。

自分のことだけ祈っていればそれでいい。

俺はそう思っているし、そう祈っている。

だってそれが本心なのだから仕方ない。

ご本仏(御本尊)には全てお見通しなのだから

カッコつけても始まらない。

ご本仏(大御本尊)は、主・師・親の三徳具備でいらっしゃる。

主の徳とは、我等を守り、救う力。

師の徳とは、我等を導く力。

親の徳とは、慈愛の力。すなわち我等を決して見捨てない力。

だから俺は先の見えない苦しい時には

「助けてください」

「守ってください」

「(どうすればいいか)教えてください」

「見捨てないでください」

そう祈っている。

大御本尊は、決して見捨てず、守り、救い、教えてくれる。

そしてもうひとつ。

祈りがなかなか叶わないと

自分の信心が足りないのでないか?と悩む人も多い。

俺もかつてはそうだったが

そんなことで悩む必要ない。と言っておく。

先日の祈祷抄講義でもかいたが

◆行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも身は不浄なりとも戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし。

と言われているように

我らの信・行・学が拙く儚くとも必ず諸天・諸仏は我等を守る。

なぜなら、我等の祈りとは大聖人の祈りでもあるからだ。

日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし。(御義口伝巻下)

我々の苦しみはひとつ残らずご本仏の苦しみであり

我々の祈りもまたひとつ残らずご本仏の祈りなのだ。

我等の信心が弱く祈りが叶わないことがあっても

大聖人の祈りがかなわないはずない。

だから我らは自身の信心が弱いなどと心配する必要ない。

「私の信心はダメです。だから大聖人様のお力で何とかしてください」

そう祈ればいい。

そう、祈りはどんな風に祈ってもいい。

自分の信心に自信などなくてもいい。

おすがりだろうと、おねだりだろうと全然構わない。

重要なのは「祈り方」でなく

「祈る相手」だ。

主・師・親三徳具備のご本仏。

即ち、戒壇大御本尊に祈らなければ

どんな風に祈ってもダメだ。ってことだ。

■故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。(日寛上人・観心本尊文段上)

こんな素晴らしく、偉大な大御本尊を

信受しない学会員さん。

今日も叶わぬ祈りを仏壇の前でしていると思うと

可哀想というか・・なんというか・・・

早く目覚めて欲しいと願うばかりだ。

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