まずは、コメントありがとうございます。
ご質問のご本尊について私なりのご回答をします。
まず、私の自宅の御本尊も学会の日寛上人の御本尊です。
で、功徳が出るとか出ないとは、
学会の日寛上人のご本尊自体に原因があるとは思いません。
法華講員さんは、ニセ本尊と言いますが
私自身は、凡夫である我々が、御本尊を
「本物」だとか「ニセ物」だとか言うべきではないと思ってます。
では、何故今の創価の本尊を単なる掛け軸呼ばわりするかといえば
それは、学会の御本尊に問題があるのでなく
学会員の信心が間違っているからです。
そもそも、一大秘法たる御本尊とは唯一無二の法体です。
日寛上人はの観心本尊抄文段の結論に、
■問う、妙法五字の其その体何物ぞや。
謂いわく、一念三千の本尊是れなり。
一念三千の本尊、其の体何物ぞや。
謂く、蓮祖聖人是れなり。
とあるように、妙法五字=本門本尊=日蓮大聖人ですから
一大秘法とは大聖人の色心の二法であり
大聖人の常住此説法のお姿ですから、唯一無二のなのです。
では日寛上人は、大聖人のどの御本尊のことを
「蓮祖聖人」と言ってるのかといえば
同じく観心本尊抄文段に、
■本門戒壇の本尊は応に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし。是れ則ち面々各々本尊なるが故なり。
とあり、本門戒壇と本尊とは
■就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。
とあるように、弘安二年の大御本尊は日連大聖人にあるということです。
このように大御本尊は総体の本尊であり
その他の本尊は別体(分身散体)のご本尊であることが分かります。
そうだすると、自宅の御本尊に題目を上げるのは、別体の本尊を通し総体の本尊に題目を上げるということです。
別な言い方をすれば、総体の本尊=日蓮大聖人に「信」を置か無ければ、別体の本尊の義はありません。
身延の大聖人のご真筆の本尊に仏力・法力があると思いますか?
私は、ない。と断言します。
理由は、大聖人の色心である大御本尊を否定しているからです。
当然、仏力も法力もそこに存在するわけはありません。
今の学会もまた身延と全く同じです。
一大秘法の戒壇大御本尊に対し不信(信受しない)を起こし
大石寺の大御本尊には功徳がない。などと誹謗する。
このような謗法を犯している学会員に功徳などないのです。
また、新入会員さんについては、まだ無知の状態で
バリ活・幹部と違い謗法と同座の状況なので
あえて、「何もない」と書かせてもらいましが、実際は与同罪です。
学会活動家は
◆、信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり
と度々いいますが
ここでいう信心とは、戒壇大御本尊に信を取る。ということです。
それを捨てた学会活動家には信心の血脈などありません。
故に無益なのです。
逆言えば、戒壇大御本尊に信をとっていれば
学会の日寛上人の御本尊でも功徳は出ます。
ここでは書きませんが、私自身まさかの功徳を頂いています。
ですから非活動男子部さんも、学会員であっても
大御本尊を捨てず、大御本尊を信じ、お題目を上げてください。
そうすれば何の心配もありませんよ。
学会員であっても、
日寛上人の御本尊であっても
必ず功徳があります。
大聖人そのものである大御本尊を信じ題目をあげてる人間を
「お前の家の本尊は学会のだから功徳はださない」
なんて、大聖人は絶対に言うはずはない。
そう強く信じていきましょう。
私もずっとそう信じて現在があります。
また、機会があれば日寛上人の観心本尊抄文段も読んでみてください。
多分、ネットでも読めるサイトがあると思います。
また、何かありましたらご質問くださいね。
私のできる限りですがお返事します。