今年の2月に母が亡くなりましたが、母が余命を宣告されホスピスに入院した時に日寛上人の『臨終用心抄』を何度も読み返していましたので、本抄について書いてみたいと思います。本抄は臨終に関しての心掛けを日寛上人が示された書で自分自身もまた看取る側にとっても重要な内容が書かれています。
一、祖判卅二十一に云く、夫れ以みれば日蓮幼少の時より仏法を学し候しが、念願すらく、人の寿命は無常也、出る気は入る気を待つ事なし、風の前の燈尚譬にあらず、かしこきもはかなきも老たるも若きも定めなき習ひ也、されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべしと云云。
まず冒頭に大聖人の「妙法尼御前御返事」の一節を引用されています。仏法は臨終(生死)について説いている教えであり法ですから仏法者はまずは臨終について詳しく学び生死について正しく見ていくことが大切です。特に「死」をどうとらえるかは重要な問題で、「死」をどう捉えるかによって「生き方」「考え方」が決まります。例えば「死んだら何もかもがチャラになる」という「死観」を持っていれば人生の中で「自死」も選択肢になりうるし、どんな重罪を犯しても死ねばチャラなのだから怖くもないし反省も不要です。自死したり犯罪を犯したりの人生は不幸です。もちろんそれらは極論ですがいずれにしても、信仰とは「死」(臨終)をどう迎えるかが一番のテーマとなります。「死」に対して目を逸らして人生の本当の意味での幸福はありません。「今が楽しい」というのは享楽であり幸福とは似て非なるものです。
一、臨終の事を属絋之期と曰ふ事。
「愚案」に臨終の事を「属絋之期」と書かれていると言われています。「愚案」とは日蓮宗の僧侶である一如院日重の「見聞愚案記」のことです。
一、多念の臨終、刹那の臨終の事。
引き続き「愚案」を引用して【多念の臨終】と【刹那の臨終】の御指南をされています。【多念の臨終】とは、◆所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人(生死一大事血脈抄)との大聖人の御妙判にあるように日々、行住坐臥に唱題をすることをいいます。人生は1秒先のことも分かりませんから常に臨終と隣り合わせです。もちろん1秒後に自分が死ぬと思って唱題をしているわけではないでしょうが、日顕上人が◇人間および生物は必ず、生・住・異・滅、生・老・病・死の法則によって死が訪れる。その死に対して、どのように対処すればよ阿弥陀仏の世界を念ずるなど、自分で様々な工夫をするが、結局、確実な道は解らない。しかし、常に題目を唱えている人は、その題目の境界そのものが臨終の正念である。(すべては唱題から45)と御指南されているように我々が唱題するところに臨終正念が存します。これに対して【刹那の臨終】とはまさしく今世最後の時を指します。木が倒れる時は曲がった方に倒れるの同様に、人が死ぬ時もそれまで生きてきた通りに死ぬというのが仏法の因果律です。故に、【多念の臨終】即ち日々の唱題の積み重ねが大切になります。そうでなければ◆我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず(顕立正意抄)との御金言のように信心をしている意味がなくなってしまいます。◆南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり(日女御前御返事)というのが大聖人の御妙判です。
一、臨終の時心乱るるに三の子細有る事。
次に臨終の際に心が乱れる原因を3点挙げられています。それは、一には断末魔の苦の故。であり1000の鋭利な刀で身を刺される苦しみだそうでが善根があればその苦しみも和らぎます。他人を誹謗し傷つけた者は誹謗の内容の実・不実を問わず風刀の苦しみを受けるといいます。2番目は二には魔の所以。成仏を遂げようとする人間にはその成仏を妨げようと必ず魔が働きます。爾前迹門であっても魔の働きはありますから正法の行者に間が競い起こるのは当然です。三には妻子従類の歎きの声、財宝等に執着するの故云云。そして最後は妻子や財産に執着することによって心が乱れると言われてます。財産はともかく妻子や友人と別れなければならいと思うと寂しくて悲しいくて心が乱れてしまいますよね。どれもこれも確かに臨終の際に心を乱しそうな事柄です。今回はここまでとします。この後に心が乱れる3つの原因に対する対処方法と臨終の作法についての御指南が続きます。
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