中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも
世間の心ねもよかりけりよかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢穴賢、
蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり
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今月は財務もあるので「崇峻天皇御書」の有名な一節。今年はやけにド直球です(笑)
心の財が大切だよ。蔵の財なんて惜しんじゃいけない、さぁ財務を頑張って心の財を積みましょう。ですか(藁)
御書をつかって金集め。それだから「大聖人仏法詐欺」なんだよ。創価は。
それと気になったんだけど、コレさ区切るところおかしくね?
「穴賢穴賢」まではその前の文につなげた方が良くね?
で「第一なり」の下の「此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」で区切るんじゃね~の?普通は。
それだと、ど真ん中過ぎるのでちょっと区切り方を変えたのか?
切文教学の創価教学らしいっちゃらしいけど。
てなわけで区切り方が変だから今日は後半の部分だけやりますね。
男子部時代に何十回と講義したし、まぁ読んだ通りなんだけど
この部分の講義をするときによく話をした、「四人の妻」という仏法説話があります。
結構有名な説話なので聞いたこともあると思うけどザックリすると、
ある男に4人の妻がいました。一人目はいつも心にかけ大切にしてきた妻。
二人目は他人と戦ってまで手に入れた可愛い妻。
三人目はいつも一緒じゃないけど嬉しい時や悲しい時に寄り添ってくれた妻。
四人目はあまり気にも留めず大切に思ってこなかった妻。です。
時が過ぎ男がいよいよ死出の旅立ちが近くなったので自分と一緒に行ってくれるように妻に頼みました。
一番目の妻には「私は大切にしてもらいましたまたが貴方と一緒には行けません」と断られます。
二番目の妻にも「私も一緒には行けません。私は自分から望んで貴方の妻になったわけでありません」と言われました。
三番目の妻は「一緒には行けませんが最後の日まで側にいて貴方をお見送りします」と言いました。
最後に四番目の妻に話すと「私は親元からはなれてからすっと貴方と一緒にいますからあなたから離れることはしません。
いつまでもどこへでもついていきます」と言われました。
さて、この四人の妻ですが、一番目の妻は自分の肉体(身の財)のことです。
2番目は妻は財産や地位(蔵の財)です。3番目の妻は家族や友人のことです。
そして、ずっと離れずどこにでも付いてくる4番目の妻とは「心」のことです。
「心」だけが死んだあともずっと付いてくる。そういう話です。
さて、この四番目妻は何も良妻と限ったわけではありません。
良妻(善業)もいれば悪妻(悪業)もいます。
良妻になるか悪妻になるかは、夫(自分自身)次第です。
いつでもどこでもどこまでも付いてくる「心」という4番目の妻。
できれば良妻(善業)として付いてきて欲しいですよね。
そこで大聖人は、
◆此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし
と言われているのです。(やっぱりここで区切った方がいいでしょ)
心の財を積む・心に財に積んであげることこそ4番目の妻を良妻にする方法です。
気にも止めず放置プレーでは主人を大切に思うわけはないのです。
ではどのようにしたら「心の財」を積むことができるのか?といえば
◆釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う(観心本尊抄)
とあるように、妙法五字即ち日蓮大聖人の色心二法である大御本尊を受持することです。
我々凡夫は戒壇大御本尊を信じ唱題することによって、
釈尊の善行(因行)とその功徳(果徳)の全てを心に積むことができると、大聖人様は言われています。
また、大御本尊(ご本仏)への強き信心が、蔵の財や身の財を守るのです。
◆されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等云云、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ(乙御前御消息)
諸天善神が必ず守る。「セコムしてますか?」よりも心強いですね(笑)
そして
◆夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず果報つきぬれば所従もしたがはず(中略)ただ心こそ大切なれ(四条金吾殿御返事)
とあるように、蔵の財も身の財も全て心から生まれてくるのです。
これは、ある程度ちゃんと生きてきたオトナなら否定はしないと俺は思います。
「心の財」を積むというのは「福を運ぶ」ことです。
自分で運ぶのです。だから「福運」というのです。
運がいいとか悪いとかでなく、自分自身が福を運ぶ作業をしたかどうかです。
大聖人仏法とは以前も書きましたが、おすがり信心ではない。
それが分からない人は大聖人仏法が分かっていないだけです。
結論をいうと、「心の財」を積むということは、大御本尊(ご本仏)に対する信仰心です。
日寛上人は、「松任治兵衛殿御返事」で
◇かならず、かならず身のまづしきことをなげくべからず。ただ信心のまづしき事をなげくべけれ
とご指南されています。
大御本尊を捨てた創価の連中は、身は貧しくない(いやむしろ職員は裕福)が信心つまりは心が貧しい。
心の財(信心)を捨てたのだから、まさしく乞食同様です。
◆此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし
と大聖人が言われいるのです。
今月の座談会でこの御文を学んだのであれば、
すぐに大御本尊への信を取り戻すのが御書を読んだということになります。
さぁ、年末までには、蔵の財や身の財のみならず
心の財をも奪い取る創価学会から離れましょう。
さもないと、悪妻が死んだ後にもついてきますよ。
「貧しい信心」には「貧しい結果」しかないのです。