創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(30年度9月座談会御書・四条金吾殿御返事)

苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて

南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、こ

れあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ

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今月の座談御書は「四条金吾殿御返事」。別名「衆生所遊楽御書」です。

非常に短い御書ですが、今回の御文は有名な一節ですね。

この御書の一番最後の結論の部分です。

この御書の冒頭は

◆一切衆生南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文あに自受法楽にあらずや

と書かれています。「衆生所遊楽」と「自受法楽」は同じというか

南無妙法蓮華経の題目を唱えることによって「自受法楽」することができる故に、

衆生つまりこの信心をする我らのいる場所は「遊楽」する場所となるということです。

同じく今回の御書に

◆現世安穏後生善処とは是なり

と書かれているように常に我らのいる場所は「遊楽」の場所となるということです。

「遊楽」=「自受法楽」ということになります。

この「自受法楽」とは「自分自身の力で法楽を受ける」という意味です。

教学的に言うと、「自受」とは「信力」「行力」であり「法楽」とは「仏力」「法力」です。

つまり「自受法楽」とは「四力」ということですね。

一般的に宗教は「他力本願的」にイメージされますし実際そのような宗教も多くあります。

逆に無宗教の人々は「自力本願的」な生き方を潔しとしてるようにも見受けられますが

実際の人生においては、自分自身の力だけで幸福になる事も運だけで幸福になる事もないでしょう。

自分の努力の上で運を味方につける人が成功したり幸福になっていると思います。

「絶対自力」でも「絶対他力」でもダメだと感じます。

そこでこの日蓮仏法の登場なわけです。

「信力・行力」という「自力」と「仏力・法力」という「他力」を冥合させた姿が「自受法楽」です。

この姿を戸田会長は「絶対的幸福境涯」と呼んだのでしょう。

「自力本願」でも「他力本願」でもなく、「四力本願」が日蓮仏法なわけです。

そしてこの「四力本願」が成立するのは

正しい「仏力・法力」=正しい本尊と

正しい「信力・行力」=正しい本尊を信じての題目が必要となるわけです。

この御文に書かれている【南無妙法蓮華経とうちとなへ】というのは言うまでもなく【本門の題目】です。

ただ「南無妙法蓮華経」と唱えていればいいということではありません。

【本門の題目】とはこれまた言うまでもないけど、一大秘法の大御本尊に備わっている題目です。

言いかえるといつも言っている「大御本尊を信受して唱える題目」です。

そしてこれもまたまた言うまでもなく「大御本尊を捨てた学会員の唱える題目」

は「本門の題目」ではありません。

つまりいくら「信力」と「行力」が強くても、「仏力」と「法力」が備わっていないので、

「自受法楽」=戸田会長のいうところの絶対的幸福境涯になることはありません。

この御書には次のようにも書いてあります。

◆遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千自受用身の仏にあらずや

これはですね。創価のいうよな「自分が仏だ」っていうような意味ではありません。

日寛上人が観心本尊抄文段のなかで

◇我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。

と言われているように、大御本尊を信受して本門の題目を唱え奉れば

わが身にご本仏の「仏力」「法力」が湧現する。わけです。

この日寛上人のご指南がまさしく「自受法楽」という事です。

また、創価は「誓願の題目」といいますが、やりたいひとは「誓願の題目」もいいですけど

本当に「苦しい」「辛い」「悲しい」時に、無理に「誓願」は必要ありません。

また、無理に「誓願の題目」をあげされるような指導もいただけませんね。

この御文に書かれている通り「苦しいから助けてください」でいいのです。

広宣流布に○○しますから××してください」なんて祈るのはナンセンスです。

そもそも、こんな祈りはご本仏と取引しているみたいじゃないですか。

「苦しい時は苦しい」「悲しい時は悲しい」

助けて欲しい。守って欲しい。それでいいんです。

「仏力」とは何ぞや?と聞かれれば、それは「主師親」の三徳です。

子供が病気の時に「いうこと聞くから病院に連れて行って」といわれる親がいたとしたら

苦しんでいる子供になんてこと言わせてるんだよ。一体どんな親だよ。と思いませんか?

苦しい時には余計なことを言わずに苦しいといえば、ご本仏は救ってくれ守ってくれ

悩んで迷っているときには「迷ってます」「悩んでます」といえば導いてくれます。

それがご本仏のもつ「仏力」であり「法力」です。

広宣流布頑張ります」というのは、「楽を楽と開いたとき」に感謝の気持ちで祈ればいいのです。

こんな素晴らしいご本仏を捨てた学会員さんは可哀想ですね。

しかもある日突然、自分の意思と関係なく捨ててしまったのだから哀れとしかいいようがありません。

どんなに泣こうと喚こうと祈ろうと、創価のコピー掛け軸相手ではどうにもなりせん。

ましてや、選挙のことだとか新聞啓蒙のことだかご本仏と関係ない誓願したり

仏敵の大謗法者・大作センセにお応えするなんて祈ったりした日には衆生所遊楽どころじゃありません。

てか、創価の組織で活動している時点で「衆生所遊楽」じゃないでしょ(笑)

あんな訳のわからない連中と日々顔を突き合わせているだけで疲労困憊です。

それが楽しくて仕方ない患部・罵詈活さんは

◆「常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く余の悪道に在ること己が舎宅の如し」(兄弟抄)

という人達でしょう(笑)

大聖人は、【いよいよ強盛の信力をいたし給へ】と言われています。また

◆汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ(立正安国論)

とも。

いま創価で間違った信心をしてしまっている皆さん。

大切なのは「いよいよ」つまり今からです。

創価信仰をスッパリやめてご本仏の元にお戻りください。

それが「自受法楽」の

「絶対的幸福境涯」への

絶対的な条件です。


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