創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(30年度308月座談会御書・松野殿後家尼御前御返事)

未だ見参にも入らず候人のかやうに度度御をとづれのはんべるは

いかなる事にやあやしくこそ候へ、

法華経の第四の巻には釈迦仏凡夫の身にいりかはらせ給いて

法華経の行者をば供養すべきよしを説かれて候、

釈迦仏の御身に入らせ給い候か又過去の善根のもよをしか

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今月の座談会御書は「松野殿後家尼御前御返事」です。

これまた随分とマイナーなところをもってきましたなぁ。

この御書は別名「盲亀浮木抄」といって、有名な一眼の亀さんのお話が書いてありますが

そこではなく最後の方の一文を座談会御書として採用です。

まぁ何かしらの意図があるからこの一文を選んだのでしょう。

さしずめ「池田先生にお会いしたことがなくともまたお会いできなくても弟子として師匠に尽くしていく」

ってな感じな講義をすれば、患部や罵詈活に受けること間違いなしです。

今となっては、大作センセを知らない世代も増えたでしょう。

そして大作センセも姿を現さない。

まさにそうした状況に置かれている学会員さん達を働かせるのに持って来いの一文です。

そして、これはひょっとしたら、いよいよ大作センセの涅槃も近づいたという

メッセージではないかと秘かに勘ぐっています。

創価の事だから大聖人の御入滅に合わせて大作センセの生命維持装置を外す。

なんていうストーリーを練っていつかもしれませんね。

オウムの麻原彰晃のように「死」を伝説にすり替えるのもまたよくある手口ですからね。

しかしまぁ創価ってやつはなんとしても大聖人と大作センセを同等にしたくて必死ですな。

さて、「松野殿女房御返事」には

◆されば女人の御身としてかかる濁世末代に法華経を供養しましませば、

梵王も天眼を以て御覧じ帝釈は掌を合わせてをがませ給ひ地神は御足をいただきて喜び

釈迦仏は霊山より御手をのべて御頂をなでさせ給うらん

と、ご供養に対して述べられています。

「松野殿後家尼御前御返事」では、【法華経の行者を】供養すべきよし。と言われ

「松野殿女房御返事」では、【法華経を】供養しましませば。と言われています。

前者は「人」の約して「法華経の行者」。後者は「法」に約して「法華経」。

これは何を意味しているかというと「人法一体」ということです。

ご供養の相手は当然日蓮大聖人ですから、大聖人が「人法一体」の体。と言うことです。

そして、この大聖人の人法一体の体とは大御本尊なのです。

◆戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、

日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、

本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝巻下)

◇就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。

既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(観心本尊抄文段)

つまり、大作センセや創価に尽くす(供養)しても、諸仏・諸天は何一つ喜ぶことはありません。

いやむしろ、大聖人の色心二法の大御本尊を捨てた捨てた創価は謗法なのです。

◆有る人此れを分つて云く「先きに悪因を列ね次ぎに悪果を列ぬ悪の因に十四あり一に・慢二に懈怠三に計我四に浅識五に著欲六に不解七に不信八に顰蹙九に疑惑十に誹謗十一に軽善十二に憎善十三に嫉善十四に恨善なり」此の十四誹謗は在家出家に亘るべし恐る可し恐る可し(松野殿御返事)

大御本尊を捨てた大作・創価はこの十四誹謗の全てが見事に当てハマってるでしょう。

創価の患部・罵詈活の身に入り込んでいるのは釈迦仏じゃぁありません。悪鬼ですよ。

悪鬼入其身の凡夫を諸天・諸仏が守護する道理はありません。

故に創価の祈りなど叶う道理もありませんね。

魔の通力を「功徳」と勘違いしてる姿が悲しいほど滑稽です。

(しかも功徳の現証とかいってブログに書いちゃうイタい子もいます)

まだ見ぬ戒壇大御本尊に恋慕の思いを抱き

一心に大御本尊への信を貫くその心こそが釈迦仏が我が身に入った心と言うのです。

もちろん、法華講員になれば大御本尊に会えますけど

大御本尊への信がなければ見参しても全くではないが意味がないし

各自の事情でその立場に無い人でも

大御本尊への信をもって唱題することはそのまま法施・理供養になるでしょう。

さぁさぁ、大聖人への思いがまだ貴方に少しでも残っているならば

大聖人を捨てた、創価・大作への供養はすぐに止め

その身から「悪鬼」を追い出してください。

そして大聖人(大御本尊)への信を取り戻してください。

法華講になろうとなるまいとどっちでも構いません。

貴方が大御本尊への信を取り戻すことが大切です。

毎月、御書を学ぶのは「創価教」を学ぶためではないでしょう?

違いますか?


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