創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価に御書は必要ないから。

通りすがりの学会員と思われる方から「創価は御書根本」などというコメントかあった。

聖教新聞にも9月に青年教学試験があるみたいで「御書根本」という文字が躍っているようだ。

「御書根本」という意味を知らないで使っているのか

それとも相変わらづ大聖人を利用しているのかは分からんけど

一応教えておくと、「御書根本」というのは「学」に即せば。ということだ。

以前も書いたが、「学」に約せば「御書根本」であり

「行」に約せば「題目根本」ということだ。

この行学の二道とは、

◆行学は信心よりをこるべく候(諸法実相抄)

と御書にあるように「信」から起こるものであり、行学の根本はあくまでも「信」である。

その「信」に即して言えば「大御本尊根本」なのである。

つまり、「御書」といい「題目」といっても、大聖人の色心二法である

戒壇大御本尊を離れては無意味なのである。

その証拠に、身延学者や無信心の僧俗の姿を見てみろ。

「御書」を「日蓮の遺文」と呼び、偽書などと勝手に決めつけ、薄っぺらな解釈しかできないだろう。

彼らのやっていることは「御書」を利用し大御本尊を否定するという作業である。

こんな人々にとっては「御書」は不要なのである。

そもそも、御書には何が書いてあるのかといえば「大御本尊について書いてあるのだ。

「御書」とは、いうなれば「大御本尊」の説明である。

相伝の輩、無信心の輩には、単なる「遺文」「手紙」にしか思えないわけだ。

かの五老僧とまったく同じ思考なのである。

だから、「御書に書いてない」といって日興門流を否定したかと思えば

こんどは「御書に書いてない」ことを堂々と主張したりする。

なぜそうなるかと言えば、根本は「本尊」に迷っているからである。

こんなに「遺文」の研究をしているのに、

身延や無信心の僧俗は本尊を確定できないでいるわけだから

何のために「研究」をしているのか?時間の無駄としか思えない。

今の創価も「然り」だ。

戒壇大御本尊を捨てた創価が「御書を根本」としたら身延同様の結果となる。

まぁ、本尊に迷いまくった挙句に創価学会仏なんて言いだしている時点で

身延と何ら変わらない。。いや身延以下になったということだ。

つまり、今の創価に「御書」は不要なのである。

いや、大御本尊を捨てた創価と「御書」は無関係なのである。

自分達で「宗門とは関係ない」と言ってるのであるから

「宗門」の聖典である「御書」を根本とするのはおかしな話だろう。

そもそも「御書」と呼ぶのは日興門流だけであり、

創価ごときが気軽に「御書」などと呼ばないで欲しいもんだ。

チミ達の「御書」は大作センセの「人間革命」で十分だろう。

「御書」と呼ばれると紛らわしいので「大作遺文」とでも呼んでくれ。

独立した世界宗教団体なのだから、いつまでも正宗の真似をしてないで独自路線を行きなさい。

チミ達に関係のない大聖人の「御書」を学ぶ必要はサラサラない。

「大作遺文」を一生懸命学び、教学試験も「大作遺文」から出題し給え。

日顕宗を破す」なんて一体御書のどこにあるのかね?

日顕宗という言葉すら「御書にはない」

その言葉があるのは「大作遺文」のなかだろう(笑)

「御書にない」ことを学んでおいて「御書根本」とは聞いてあきれるではないか。

そもそも、創価活動家連中で御書を使って「日顕宗」を破してる奴なんていね~だろ。

むしろ、破されているのは「創価臭」「大作狂」の方じゃね~か(大笑)

ともかく、「御書」は今の創価には全くの無関係な読み物であり

創価には全く必要のない「書」である。

座談会にすら持って行かないのだから必要ないだろ。

とっととメルカリにでも出品したらよろし。

「大作遺文」よりは相当高く売れると思うぞ(笑)

しかし、アレだな。

「御書根本」の活動家は絶滅したよな。


にほんブログ村