先日、「○○の大作師匠」のご指導を書いたが、
同じ日の聖教新聞に、パナマ・コロン市というところの「ザダンカイ」(わざわざカタカナかよ)の記事があった。
その日のザダンカイのテーマが「御本尊」というテーマだったらしく
なんとか本部長次のような指導が掲載されていた。
この御本尊は、題目を唱える私たち自身の中にあります。
祈ることで、御本尊と同じ仏界の生命が引き出されるのです。
このことについて、第2代会長の戸田城聖先生は電球に例えて教えてくださっています。
題目を唱えていない人は、電球を持っているが電源につなげていないのと同じようなものだ。真剣に唱題し、御本尊とつながることで、電流が流れ、光り輝いていくのだ、と――
あれれ?なんか変だなぁ・・
たしがダーハラ会長は以前、
ある場所に特定の戒壇があり、そこに安置する御本尊が根本の御本尊で、その他の御本尊はそれにつながらなければ力有が発揮されないという、あたかも”電源と端子”の関係であるかのような本尊観は、世界広宣流布が事実の上で伸展している現在と将来において、かえって世界広布を疎外するものとなりかねないのであります
と指導していたはず。
「電球と電気」の関係なんていう例えは世界広布を疎外するような例えなんじゃなっかたのか?
それに戸田先生の指導とは、折伏経典に書かれている
これはちょうど電灯にたとえて考えてみると、(御本尊を電球にたとえることはもったいないことではあるが)ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光が出ないのである。御本尊が大聖人の御真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものは全て謗法である。
この指導のことだろ?だとするとここには戒壇大御本尊に直結。
つまり大御本尊を拝まない者には電流が流れてこないから光を発しない。と明確に言われている。
聖教新聞に掲載されている、なんとか本部長の指導は
戸田先生の指導と全く違うし、ダーハラの指導を真っ向否定している。
一体、誰の指導が正しいんだよ?
言ってることがみんなバラバラじゃね~か。
そんな勝手な指導を創価の広報誌である聖教新聞に掲載していいのか?
本当に適当なことばっか言ってんなぁ。創価は。
このなんとか本部長の指導ってよく聞くとオカシイんだよね。
この御本尊は、題目を唱える私たち自身の中にあります。
祈ることで、御本尊と同じ仏界の生命が引き出されるのです
この部分を通解すると、御本尊は自分の中にある。題目を上げると御本尊=自分と同じ仏界の生命が引き出される。
おいおい、題目上げて「自分と同じ生命」になるんか?
いや、題目あげなきゃ「自分と同じ生命になれない」って、どんだけだよ。
自分と同じ生命になるために大聖人は御本尊を顕したのか?
この解釈なら御本尊なんていらないじゃん。
自分が本尊なんだからよ。
題目を唱えていない人は、電球を持っているが電源につなげていないのと同じようなものだ
で、この指導だと「電球」が御本尊で「つなげる」つまりコードとかそういうものが題目でしょ。
じゃぁ「電源」は?ねぇねぇ「電源」はなんなのさ?
ひょっとして自分?自分が「電源」で、題目のコードで「自分つなげて」
本尊に明かりを灯して電源である自分を照らすってことなの?
てことはだよ。本尊ってのは凡夫がいて題目あげなきゃなんの力もないってことか?
仏力も法力も信力も行力も全部自分が持っているならやはり本尊いらないだろ?
「御本尊」がテーマなのに、「御本尊はいらない」って話になってるじゃんwww
まぁ、実際創価のカラーコピー掛け軸本尊もどきには仏力も法力もないからいらないんだけどさ。
電源云々とかコード云々以前の問題で最初から玩具の電球で光らないようにできているからな。
それはさておき、こんなモノは大聖人仏法でも何でもね~だろ。
鏡に向かって己のマヌケズラに題目をあげてろや。
っていう世界だろwww
これが、「創価の世界」であり「世界の創価」のレベルなんだよな。
どこが仏意仏勅の団体なのか?笑わせるもいい加減にして欲しいよ。
ひとつだけ言えるのは世界中で創価は、デタラメな本尊義を構え
純真無垢な会員たちを騙し、大聖人仏法を外道へと貶めている謗法団体である。
ということだな。
ダーハラからして、「本尊義」が首尾一貫していないのだから
そこらの無教学のハンパ活動家に「本尊義」なんて答えられるはずね~わ。
納得。納得(笑)