創価ダメだしブログ

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聖僧について

日興遺誡置文の

◆先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の妖犯有りと雖も衆徒に 差置く可き事

この御文に聖僧について書いてみる。

以前この御文については【或いは】という読み方は

貫首または習学の仁と読むのではなく

貫首は「もしも習学の仁が」と読むのだという内容の記事を書いたが

今回は「聖僧」の定義とは何か?について書いてみる。

この「聖僧」を「妻帯をしない」という定義にして

法主を始めとする僧侶は聖僧ではない。とか

妻帯・肉食を許されてから僧侶が堕落した。

などと創価のカツドウカは正宗僧侶を批判するが

俺はその批判は全く的を射ていないと思っている。

その理由はいたってシンプルで

大聖人が「妻帯・肉食しない僧侶」を「聖僧」であると

言われている文証がひとつもないからだ。

また大聖人が「妻帯・肉食」を禁じた文証もない。

また「妻帯・肉食」を禁じること自体が大聖人仏法の教えから外れている。

そもそも、いわゆるこのような戒律は末法には全く意味をなさない。

末法の今は、だた大御本尊を信受することのみが唯一無二の戒律であり

「妻帯・肉食をしない」ことが聖僧の定義であるわけがない。

大聖人ご自身や日興上人は「妻帯」されてはいないが

それが「聖僧」の証ではない。

そもそもご謙遜ではあるが大聖人がご自身を

「私は妻帯も肉食もしない持戒の聖僧である」などと御書のどこにも書いてない。

四恩抄で大聖人は

◆世末になりて候へば妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず

と言われているがそれをもって聖僧であるとは言われていない。

むしろ同じ四恩抄でご自身を

日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども

と謙遜されてはいるがこういっている。

つまりは「妻帯・肉食しない」とことが「聖僧」という意味ではないということだ。

それを僧侶の「妻帯」=「堕落」

「妻帯」=「邪淫」のように捉えるのは大聖人仏法の本義ではない。

再び四恩抄を引けば

◆故に大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云つて是を悩すは此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり

と大聖人は言われている。

よくよくこの御文を咀嚼してほしい。

そもそもこの遺誡置文の御文の「聖僧」の部分を「妻帯」などと解釈するのは

日亨上人の「富士日興上人詳伝」の中の記述

◇「この条の見とおしは、凡僧の自分にはつきかぬる。なるべくは、一時的の現今の僧分の弊風とみて、その内自然に振粛して、宗祖開山時代の常態に帰るべきを祈るものである(中略)それを無作と名づけてみても、けっして放縦不羈なものでない」

に基づいている。(広宣部時代に学んだから間違いない)

この日亨上人の記述から、現在の宗門の妻帯は異常自体であり

大聖人・日興上人の時代のように「非妻帯」が正常であるのだから

「妻帯」は「聖僧」ではない。という半ば強引に持っていくのが創価カツドウカのロジックだ。

そして「僧侶」=「出家」=「非妻帯」という

釈迦仏法の一般的な戒律が正しいと思っている人をだまくらかすのである。

日亨上人のご指南を「是」とするならば

日亨上人の書いた「魚鳥食開訓」には次のとおり書いてある

◇宗祖の化儀は聖僧であって、御開山の化儀も、また御門下の化儀も聖僧であった事は、史実として見るべきであるが、もちろん小乗戒でも大乗戒でもない。有作数目にして係(かか)はる戒ではない。本門無作の大戒であるから、戒目を挙げて、或は此れを遮し、此れを開する底の窮屈な事例はあるべきではない。然れども鎌倉時代に横溢する破壊無慙の妖僧等に簡異する為に、仮に断肉禁淫の聖僧を標せられたものであろう。(中略)また妻孥に慰められねば夜の明けぬと云ふ人も仕方があるまい。夫唱婦随、同心戮力して、一家平和の好模範を壇信徒に示し、宗門のためにも、住寺のためにも、国家のためにも、郷里のためにも、努力の効が顕著であったなら、帯妻の譏嫌は償はるるであろう。(中略)菜肉妻に著せずして信仰に生くべきである。弘法のためには死しても悔いなく、憾なきを所期とするのが宗徒の信念の第一義であらねばならぬ。(中略)もっとも、禁欲斎戒を標榜にする宗門の坊さんなら、何と言われても、身から出た錆で、致し方もあるまいが、六百有余年の昔に末法無戒を喝破した日蓮大聖の門下には、迷惑千万の至りじゃ。

これが日亨上人のご指南である。

宗内の「妻帯」を「聖僧の化義ではない」などと一言も言われてないのだ。

大聖人仏法における「聖僧」とは、そうした戒律を守ることでなく

法体を守ることであり、法門を守る事であり

「信仰に生き抜く」ことに他ならない。

そのような僧侶を日興上人は「聖僧」と呼んだのである。

そもそもカツドウカはいつも自分達の都合のいい日興上人の遺誡だけ取り上げる。

僧侶の妻帯が日興上人の遺誡に背く。というならば

◆檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けん や、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云。

この御文はどうなんだ?

檀那。つまり在家の信者の社参物詣を禁じているが?

一見もダメなんだからどんな理由でもダメってことだぞ?

え?自分たちは在家だからOKだって?

ははは(笑)

だったら僧俗に「差別」はあるじゃん。

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