総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して
異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か
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改めまして新年おめでとうございます!
今年最初の記事は年頭ということで1月の座談会御書の講義をしてみるよ。
「生死一大事血脈抄」。バリ活さんの大好きな「信心の血脈なくんば・・」って御書ね。
創価のいう「信心の血脈」の文証になっているからだね。(とんだご都合主義だな)
しかしこの「生死一大事血脈抄」は男子部バリ活時代に
「最もたくさん講義」した御書だよ。(リクエストが多かった御書でもある)
短い御文でなおかつ大聖人仏法の法門・法義が詰まっていて、
しかも読みやすい御書なので、部活で取り上げるるのにはいい御書なんだよね。
まぁ、こうして切文にしちゃうとわかりずらいんだけど座談会じゃ仕方ないか。
で、今回の拝読箇所もイロイロと言いたいことはあるんだけど2点だけポイントを書くよ。
まず1点目は最初の「総じて」という部分ね。
ここまでの前文を読めばわかると思うんだけど、
ここで、「総じて」と言っているのは当然「別して」に対応して「総じて」と言われている。
で、この「総じて」というのは2意あって、
一つはこの前文(3つある生死一大事血脈のうちの最初の2つ)
◆久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る①
◆過去の生死現在の生死未来の生死三世の生死に法華経を離れ切れざる②
この①・②は、「別して」自行(個人の信心)に約されていて、
これの対し本文は「総じて」化他に約されている。
二つ目は、本御書冒頭の
◆夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり
この「別して」の「法体の血脈」に対して、
本箇所は「総じて」の「信心の血脈」をご教示されているわけ。
因みに【過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈】
この部分が大聖人仏法の法体。つまり妙法五字ね。
この前文の【釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて】というのは
あくまでも大聖人の外用の辺に約して述べているもで、
本意はあくまでも【過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈】だよ。
【過去遠遠劫】とは久遠元初ということだよ。
なので、この部分の「総じて」というのは、あくまでも「別して」の血脈を念頭に置かないとダメなんだよね。
この総別の二義をしっかりと理解しないと創価教学になっちゃうので気をつけて。
◆日蓮又日本国にして此の法門を弘む、又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず(曾谷殿御返事)
つまり一つは総じて広宣流布といっても別しては正しい自行の延長線にしかない。
もう一つは「総じて」信心の血脈というのは「別して法体の血脈」に信を取るのが前提となっている
この2点が第1ポイントね。「別しての血脈」を無視して「総じての血脈」なんてないんだからね。
ポイント2は勿論、「異体同心」って部分。
創価教学では、「同心」ってところを、
「師弟不二」とか「三大会長に流れる広宣流布の精神と行動」とか
わっけのわかんね~寝言を真顔で言っちゃうんだろうけど
大聖人仏法には残念ながら、大作センセなど登場する場面は全くない。
「同心」の「心」とは「信心の心」。
ここまではバリ活も分かっているいると思うが
じゃぁ?「同」は?
「大作センセ」・・ブー不正解。
この「同」というのは「大御本尊」ってことね。
決して末法の荒凡夫である、大作センセと心を同じくする。ってことじゃない。
一大秘法の戒壇大御本尊に対する「信心」ってのが「同心」ってことだね。
で、ここを説明するには冒頭からやらなきゃいけなんだけど上記で引用した
◆久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る。
この部分で説明しておくよ。
◆三つ全く差別無しと解りて
とあるけど、末法の凡夫はそれを「解れない」んだよね。
でその代わりに「信じる」んだけど、この「信じる」ってのも難しいでしょ?
三つ全く差別なしって信じるといってもねどうすりゃいいの?ってなっちゃう。
そこで我ら凡夫は、信じる変わりに「受持」するわけね。
そして「受時即観心」の法理により「解る」ことができる。こういうわけだね。
そこで一番重要になるのは何を受持するのか?って話になるんだけど
【久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別のない体】を受時するんだよ。
つまり「3つ差別のない体」を受持して妙法蓮華経と唱え奉るということですよ。
というわけです。
この3つが差別のない体とは具体的に言うと、ご本仏日蓮大聖人のこと。
久遠実成の釈尊=久遠元初自受用身
大聖人の一身に、久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経が備わっているわけ。
つまり「三つ全く差別のない体」とはご本仏・大聖人の色心二法を指しているわけで
その色心二法をそのまま移したのが、出世の本懐である
一大秘法・本門戒壇の大御本尊。なわけです。
つまりそれを受持することが「別して」個人(異体)における生死一大事血脈の根本。
その各個々人の正しい信心があれば、自然と「同体」になるわけさ。
つまり、創価のいう「センセに呼吸を合わせる」とか
「長に呼吸を合わせる」ってのは
「異体同心」っていわない。言ったとしても世法の範疇。
本来の大聖人仏法では、そんなことをいちいち言わなくても
ご本仏を信じる。大本尊を信じる。という信心があれば
それはすでに「異体同心」の姿なわけだね。
そこをもって
◆今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か
と言われているわけだ。
そして結論はというと、
大御本尊を捨てた、大作センセと創価幹部活動家の皆さんには
「異体同心」も「広宣流布」もあり得ない。
むしろ、異体異心。
◆一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし(高橋入道殿御返事)
ってところだね。つまりは
「信心の血脈」なんて当然ありません。
なので、
◆法華経を持つとも無益なり
ってか「法華経を持っていない」のだから
端から「生死一大事血脈」なんてないわな(笑)
この御書は、本当に深いんだけど今日はザックリで勘弁してください。
最後に、私の御書の「生死一大事血脈抄」のページの画像を。
我ながらよく研鑽したなぁ・・・