創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

シャリホツさんへのリコメ

こんばんは。初めまして。

コメントへの回答が少し長くなるかもしれないので、

ブログ記事にて私の考えを回答します。

> 私が提唱するのは「妙法蓮華経本仏論」です。

> もちろんここでいう「妙法蓮華経」は、経典の名前ではなく、「開目抄」および「観心本尊抄」で示された文底秘沈の「(南無)妙法蓮華経」のことです。

まず、この「妙法蓮華経本仏」というのは素晴らしいと感じます。

コメントを読ませていただいて

年季の入った活動家・幹部ですら、なかなか「妙法蓮華経仏」までたどり着かない創価の現状のなか

妙法蓮華経本仏論」をお持ちなっているのは素晴らしい。それが率直な感想です。

私も、「南無妙法蓮華経如来本仏」論者です。

そしてこの「妙法蓮華経仏」こそ、日蓮大聖人である。というのが私の考えです。

勿論、ここで言っている日蓮大聖人とは鎌倉時代の外用の日蓮大聖人ではなく

その内証。即ち久遠元初自受用身の大聖人です。

つまり、私は「妙法蓮華経仏」というのは、あくまでも「人法一体」の仏であり、故に「本仏」なのです。

「法本尊」だけ立てると「理の仏」になってしまいます。

なぜなら法としての「妙法蓮華経」とは「理の一念三千」でしかないからです。

妙法蓮華経仏」は、いまどこにいて、何を説いたのか?

そうした「事」が全く説明できません。

「理屈として存在」しているだけで「事実として存在」していなければ、末法衆生は救えません。故に「理の仏」です。

このような「理」の仏であるならばそれは「迹仏」であり「本仏」ではないと思います。

では「妙法蓮華経」とは、もともとはどこに存在したのか?というと

◆至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時因果倶時不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す(当体義抄)

とあるよに「理の一念三千」には最初は名前はなかったのです。

聖人(仏)に妙法蓮華経と名付けれた。つまり仏の智慧の中にあったのです。

◆ 釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき(三世諸仏総勘文教相廃立)

とあるように久遠元初の大聖人が即座開悟したときの法本尊(妙法蓮華経)とは、「我が身」つまり「自分自身」が妙法蓮華経ということです。

上記の二つの御文から分かることは、「妙法蓮華経」とは

久遠元初自受用身(大聖人)の色心を離れたところには、「事(実)として存在していない」といことです。

(もちろん理としては存在してますが)

> 「日蓮本仏論」の不審な点は、日蓮大聖人だけを「本仏」として他の衆生とは別格の存在として扱う点です。

大聖人に限らず「仏」の存在がなければ、一念三千自体が成立しません。

「仏」が存在しないとなると「仏界」が存在しないことになり、十界互具が成立しませので一念三千も成立しません。

一念三千が成立しないと「妙法蓮華経」も存在しません。

「仏界所具の人界」と「人界所具の仏界」は厳密には違うのです。

ただし、それは別格で特別な存在。といものではありません。

生仏不二。それが一念三千です。

大聖人の御内証がご本仏でないなら、仏界所具の人界の存在は証明できません。

> 大聖人はこのように考えたからこそ、人をかたどった仏像ではなく「妙法蓮華経」という法を曼荼羅本尊として図顕されたのではないでしょうか。それなのに、日蓮大聖人を「本仏」や「人本尊」として扱ってしまうと、法と同時に人も根本とすることになり、阿弥陀仏大日如来を本尊とする他宗に近づいてしまうと思われます。

「法が能で仏が所」という「法勝人劣」は釈迦仏法の範疇の話です。

なぜなら久遠実釈迦仏も法によって 成仏したからです。

その法とはおっしゃる通り「妙法蓮華経」ですが、

その根本の法は上記しましたように「人法一体」の法なのです。

また浄土宗j系・真言宗系については、別の仏・別の法を立て

阿弥陀・大日といった迹仏に帰命するから邪宗になります。

久遠元初自受用身の本仏を立てている以上同じにはなりません。

> もし、「日蓮本仏論」や「人本尊」の考え方が正しいというのであれば、

> 1) 日蓮大聖人と(南無)妙法蓮華経が同一であること  もしくは

> 2) 日蓮大聖人を南無(帰命、信仰)の対象とすべきであること

> このどちらかを真筆御書、あるいは真筆に匹敵する信頼度のある御書で示して頂けないでしょうか。

御書を、「偽書」とか「真筆」とか分けるのは私は反対の立場です(この件はいずれ記事にする予定です)

「信頼度」とはどのようなことをもって「信頼度」と言うのか?

単なる「文献学」等の学問上の事をいうならばそれは法体と法門の違いが分かっていないと思うです。

ですが、ひとつだけ引用しておきます。

提婆達多釈尊の御身に血をいだししかども臨終の時には南無と唱えたりき、仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを業ふかくして但南無とのみとなへて仏とはいはず、今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん(撰時抄)

> 突然の不躾な質問で申し訳ありませんが、私も大聖人の仏法を深く理解したいと考えておりますので、どうかご教示願います。

いえ、全然不躾なんかではありません。

むしろ、大聖人仏法を自分で求めず、

ただ創価教学だけを聞いているだけの学会員が多いなか

シャリホツさんのように、大聖人仏法を求めていく方は大好きですし、何よりも尊敬します。

今日は、私の考えを書かせてもらいました。

勿論、それを押し付ける気はありません。

シャリホツさんの仏法研鑽の何かのお役にたてれば幸いです。

また、何が意見などありましたらお気軽にコメントください。

今回は、コメントいただきありがとうございました。

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