創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(8月度座談会御書・千日尼御前御返事)

譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び

雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、

御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、

我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ

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今月の座談会御書は「千日尼御前御返事」から。

これはいいね~。

内部アンチと呼ばれる俺にとっては

勇気の出る御文だなぁ。

学会教学的には、池田センセと合わなくても

センセを求める心こそ重要なんだ。的な講義なんでしょ?

でもって、池田センセにあった事ない多くの会員を洗脳し

そしてこれから二度と会員に会えないだろう池田センセを伝説化するつもりなんでしょ?

もう、なんだかバレバレすぎるよね。

そんな講義がなんでこの御文の講義になるかなぁ?

なんで池田センセを求める心が

「仏になる道」とつながるのかなぁ?

そこら辺はどうせ講義しないんだろうね。

そりゃそうだ。

池田センセを求める事は仏になる道じゃないからね

そこらへんを突っ込まれちゃうと困るもんね。

しかし、毎度のことだけど

なんで、ご本仏・日連大聖人と荒凡夫・池田大作

同等に扱うのかなぁ。

凡夫本仏論?

だったら御本尊は必要ないね。

単なる金儲けの為の商品じゃん。

ここでいう「仏になる道」とは

「仏を敬う心」であり

「仏を信じる心」のこと。

その具体的な行動とは「ご供養」の心だ。

それがご供養の精神。

話はそれるが、「今まで宗門にしてきたご供養を返せ」だの

「こんなに宗門にご供養をしてやった」なんていうのは

このご供養の精神がわかっていないんだよな。

「心こそ大切に候へ」って事がわかってないんだよ。

さて、では千日尼は誰にご供養したのかと言えば当然大聖人なんだけど

ご供養を受けた大聖人は、この御書のなかで

法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり

といわれているように、法華経にご供養した。と千日尼に言われている。

これは何を意味しているかといえば

大聖人即法華経

文底でいえば、自受用身即一念三千であることを意味しているわけだね。

大聖人に供養するということは

単に「人」に供養したのでなく、

「人法一体の体」つまりは法体に供養したことになる。ということだね。

前文で、法華経(法)への供養が仏(人)への供養に勝る。と言われているのは

あくまでも釈迦仏法に即した言い方であり

文底の意では、人法一体の法体への供養を称えているわけだ。

この「自受用身即一念三千」を指して「事の一念三千」というわけだが

この事の一念三千を「敬う心」

この事の一念三千を「信じる心」

この「心こそ大切」であり

この心が仏になる道であり

この心があればこそ娑婆即寂光となりうるってことだね。

◆南無と申す字は敬う心なり随う心なり(内房女房御返事)

で、「事の一念三千」の当体とは

そう。一大秘法の戒壇大御本尊なんだよ。

大御本尊を敬う心、信じる心が仏になる道ってことだ。

それがなくてどうして仏になれるのか?

池田センセは法体を所持していない。

センセを求めたからって仏にはなれない。

仏力も法力もセンセにはないのだから。

さて、そうはいっても俺のように創価に在籍していると

千日尼のように直接的にご供養はできない。

どうしよう?と思ったとき

直接、ご供養できないのなら

謗法への供養を自分も止め、他人にも止めさせる。

それがせめてもの大御本尊に対する供養だと思って

こうしてブログ書いたり

地元の学会員と話をしたりしているわけだ。

そしてそんな俺がこの御文で勇気が出るのは

「御面を見てはなにかせん」の一文だ。

創価でいる以上、大御本尊にお目通りは叶わない

でも、大御本尊にお会い出来なくても

大御本尊は俺の心を分かってくださる。

自分勝手な思い過ごしなのかもしれないが

俺はそう信じてまだしばらくは創価に残り

なすべきことをしようと思っている。

そしていつの日にか、必ず御本仏とお会いしたい。

この御文のあとには

◆いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん、

と続く。

大聖人と大御本尊といつの日か必ず。

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