さて、今回の創価活動家もご多分に漏れず
創価を批判されると
やれ「悪口」だの「誹謗中傷」だのと
相変わらずの創価活動家っぷり。
教義などの余計なことを書いたりすると墓穴を掘るので
「創価批判者は悪口ばかり。誹謗中ばかり」と対応しなさい。
というようなマニュアルでもあるのかと思ったりする次第で。
そもそも、他を批判するのが
「悪口」であり「誹謗中傷」であるから「良くない」のであれば
破折や折伏などできない。
大聖人が四箇の格言をもって他宗を破折するのも「良くない」ことであり
創価が宗門を聖教や新報で捏造写真まで使って悪し様に悪口いったことを謝罪しなければならない。
自分たちの言葉は正義で批判する側は「悪」などという
自分勝手な言動が創価及び創価活動家が世間に嫌われる大きな原因だと思う。
「悪口はいけないこと」一般的にはその通りだ。
しかし、大聖人仏法を信仰する人間が
道徳論【だけ】を振りかざし、自分達の正義を叫ぶのは
なんとも情けない。
御書には
◆若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり(立正安国論)
と書いてあり法を破るものを責める事が真の弟子だいわれいる。
では、この「悪口」と「破折」の境界線はどこなのか?
大聖人と大聖人に敵対していた人達の違いはどこだったのか?
というと、経文つまり文証に依っていたか否か。
その一点につきる。
「法に依つて人に依らざれ」とあるように
少なくとも仏法の事を語るのであれば文証をもって語るのが
大聖人仏法を信仰しているものの振る舞いだ。
文証によらず他者を批判することを「悪口」といい
そのような「悪口」に対しては「責め」ていくのが大聖人の弟子の振る舞いである。
◆私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず、妄語の至り悪口の科言うても比無し責めても余り有り(立正安国論)
自分勝手な言葉を述べ、全く文証をださない。
そのような人間の言う言葉を「妄語」といい「悪口」という。
大聖人は厳しく責めているのである。
経文(御書)に依るか、創価の人師論師に依るか
経文(御書)に依るか、世間の凡夫に依るか
そこが、「悪口」と「破折」の境界線だろう。
◆論師訳者人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん(破良観等御書)
◆されば心あらん人人は経文をか用ゆべき世間をか用ゆべき(報恩抄)
いずれにせよ、文証によらなければ
邪義であり外道義である。
そう大聖人は言われいる。
そしてそのような邪義・外道義によって
大御本尊を捨てさせる創価上層部及び活動家は法を破る者だ。
そうした創価の邪義を、
呵責し駈遣し挙処することが
大聖人の弟子としての振る舞いである。
創価教学などという教学を学んでしまった
活動家には理解できないだろう。
でも、別に創価幹部や活動家に理解してもらうつもりはない。
そうした方々の理解を求めてるわけではない。
そうした方々にしているのは、その邪義を、
呵責し
駈遣し
挙処している。だけのことだ。
だから何も気にしなくていいのだ。