かりんとうさんから次のようなコメントいただいたので今日は供養の話。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
日蓮正宗活動家の記事を読んでいます。疑問があって・・・供養の事です。
大変みすぼらし様子の老婆が、実は莫大な財産を家族に一切残さず全部供養した お話。
この老婆の信仰心をたたえています。
あるご住職の話、「お題目は一分でも足りないこともなく、三時間で足りることでもない。
時間があるのにしないのは良くない。供養も同じ、あるのにしないのはどうかと思う」
こんな指導は不愉快です。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
確かにこの住職の話は不愉快ですね。
友人と飲みに行って今日はお金があるからご馳走しよう。って思ってたら
その友人から先に「オマエ金あるんだから奢ってくれよ」って言われたら
不愉快で、いくら金があってもご馳走したくないし
もう二度とコイツとは飲みに行かない。
そう思っちゃうよね。
まぁ、この住職の話はそんな感じの話かな。
どうかと思う。みたいな言い方がね~。
それこそご供養で養われている住職として「どうかと思う」
まぁ、住職とは言えそこは我らと同じ唯の凡夫。
で、ご供養というのはその凡夫である住職さん対してするものではない。
大聖人はご供養について御書の中で多く言っているが
要約すると、ご供養というのは三宝に対してするもの。ということ。
ここでいうところの三宝とは言うまでもなく
正しいご供養だと思う。
俺は法華講員になったことないのでわからないが
住職に対する供養と思えば腹立つこともあるだろうが
大聖人に対する供養と思えば腹もそんなに立たないのではないかと思う。
まぁ、「あるなら出せよ」的な話は問題外だが。
日寛上人の消息文に、
■「さては前度下し奉りまいらせ候御本尊之御供養彼方此方より皆々相届け被入御念 候、御事候。
殊松任殿老之いとまなき身本因妙一万遍御供養難有御事候かならずかな らず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ御供養候とも若信心なくは せんなき事なるべし。たとへ一滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし阿育王の因縁なりと思ひ出られ候べく候。かならずかならず身のまづしきをなげくべからず唯信心のまづしき事をなげくべけれ」(松任治兵衛殿御返事)
というものがある。
これは松任治兵衛という信徒が日寛上人に御本尊を下付してもらったが
貧しくお金がないので何もご供養ができず、代わりに本因妙(題目)一万遍の供養をしてことに対するお返事だ。
これを読むとわかるように、信心がない多額の供養よりも、心からの(信心の)一万遍の唱題の方が尊いと
日寛上人は言われている。
俺も昔は極貧だった時代があるからわかるけど
この日寛上人のお言葉に涙が出る思いだ。
大御本尊に対する信。そして報恩感謝の念で供養こそが大事なのだ。
それゆえに功徳(大果報)を得ることが出来ると。
創価のように「功徳が出るから財務(供養)する」のでなはなく
「報恩感謝の気持ちで供養するから功徳が出る」のだ。
はじめから「財務は功徳がある」なんていう根性で功徳など出ないわけだ。
これは、財供養だけでなく、身供養・法供養も同様。
供養というのは功徳をもらうためでなく、
報恩感謝の顕れであり、信心の顕れである。
その心の顕れに、金額の多少は関係ない。
自分自身が大御本尊に感謝したとき、その時できることをすればいいのである。
それがご供養の精神ではないかと日寛上人の御文を読むと思われる。
翻って創価のしてきた供養はどうだったのか?
さっきも言ったように「功徳が出るから財務する」なんて発想は
金で功徳を買う。と言ってるようなもので
ご供養の精神が欠けているとしか言えない。
また、破門から現在にたるまで
池田センセ・創価上層部・活動家たちは
「宗門にどれほど供養したと思ってるんだ」
「宗門を繁栄させてやったのは俺たち創価だ」
「宗門が大きくなったのは創価のおかげだ」
などなど、
まるで「供養してやった」かの如く吹いている。
こうした人達には多分一生ご供養の意味を理解でないのだろう。
さっきも書いたがご供養とは報恩感謝の一念でありそれが信心。
だからご供養とは「してやる」のでなく「させてもらう」
そこがなければ日寛上人の言うように
■たとへ山のごとく財をつみ御供養候とも若信心なくは せんなき事なるべし
なのだ。
俺はしていないが、正本堂を建てるとき
多くの学会員は真実のご供養をしてきたはずだ。
だが、今池田センセと不愉快な仲間たちに追従して
「宗門を大きくしてやった。宗門を守ってやった」などと考え違いをしては
正本堂のためにした供養の功徳などたちまち消えてまうのだ。
もっとも、そうしたご供養の意義や精神が全く理解できない創価活動家だからこそ
三宝である大御本尊になんの関係もない
創価の財務に「功徳がある」なんて思い込んで
年末にせっせと創価に振り込むのだろう。
日寛上人のお言葉をもう一度書く
■たとへ山のごとく財をつみ御供養候とも若信心なくは せんなき事なるべし
いづれにせよ、ご供養に、財も身も法もおお多いとか少ないということはない。
「信」があるかないか。
供養の大事は、その一点だけだ。