創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

ランボーさんのご質問への回答 inwgx6

ランボーさんこんばんは。

ご質問への私なりの回答をさせてもらいます。

① 「日蓮と同意ならば」の修行的側面を「身・口・意」の三業の上から教えてくださいませ。一つは「正しい勤行・唱題」の実践が挙げられておりましたが。

まず最初のご質問ですが、正しい勤行・唱題の実践こそが唯一の修行と思います。

理由は、「正しい勤行・唱題」に「身・口・意」の修行が総て備わっているからです。

まず、正しい勤行・唱題とは正し対境である大御本尊に信じる事が根本です(意)

そして、御本尊に向かい数珠を手に持ち合掌するその姿や給仕する行動・姿は「身」の修行

で、勤行・唱題は「口」の修行です。

末法は受持即観心です。

大御本尊は六波羅蜜自然在前ですから

受持の修行に総ての修行が含まれます。

受持とは正しい勤行・唱題に他なりません。

故に、正しい勤行・唱題に勝るそして代わる修行はないと思います。

② 広宣流布の定義について我々の経験知では、いわゆる折伏、各種展示などのイベント、

かつて毎週日曜日に開催されていた「文化祭」、あるいは寄付、 そしてなんつっても「センキョ必勝=政界浄化、福祉の増進、   平和国家の理想実現など」でありました。 あえて難ずるならば、こういう既存のモデルではなく他にどういう具体的な行動が考えられるとお思いでしょうか。

それはないというか、そもそもいわゆる学会活動は必要ない。私も数多く折伏・本流をしましたが、学会のイベントに感動して入会した人は一人もいませんし、ましてや池田センセが好きで入会する人もいません。入会した全員が紹介者である学会員を色々な面を見聞きし信用して入会したのです。もしも学会活動をするのであれば「座談会」だけでいいでしょう。と言っても今みたいな座談会なら必要ない。草創期の(私は聞いただけですが)座談会。功徳の体験談と大聖人仏法の法門を語っていく。 それだけで十分に本流できます。事実学会はそうして会員を増やしてきたのですから。ただ残念ながら、今の学会の座談会では功徳の体験談も大聖人仏法の法門・法義も語られることはないでしょう。体験談はあったとしてもその体験が大聖人仏法の功徳であるという理論的裏付けがなければ本流はできません。少人数の会合そして対話。それ以外に広宣流布の方法はないと思います。

②ー2 地湧の菩薩の振る舞いがあれば自然に一大秘法の広宣流布が 成り、平和な政治経済が営まれ、地球全土に「如説修行抄」にあるような「楽土」が実現されるとお考えでしょうか。

これは非常に難しくて私にもわかりません。大聖人が広宣流布できる。と仰せなのは

「実際に広宣流布が完了する」という意味ななのか

それとも「自分が末法にいつ生まれてきても広宣流布ができる」という意味なのか

私は、どちらかというと後者の方にウェートをおいています。

というのも、もし広宣流布が完成(すべての人が信心をする)してしまうと

この地球は娑婆世界でなく仏国土となってしまう。

しかし一念三千の法門から言えば仏国土とはいえ、四悪趣を持っている

ということは仏国土にもまた悪は存在する。

だったら広宣流布は終わっていない。

とまぁ堂々巡りになっちゃいます。

また娑婆世界(九界)がそっくりそのまま仏界に変身することは

末法の今仏法の理論ではありえない。

結局この娑婆世界での仏国土とは、九界所具の仏界の建設であり

いわゆる極楽浄土や浄瑠璃世界の仏国土にはなりえない。

ということは、娑婆世界は常に仏と魔の戦いの連続で

常に仏が勝利する状態を広宣流布といい

仏国土というのではないか?

今の段階での私の考えはこんな感じです。

③  かつての派閥抗争、すなわち戸田先生が「石田は学会の長男。 大作は次男だぞ」とおっしゃっていたにも拘らず、大阪事件の 裁判中に池田先生が第三代に就任されました。 もしも、石田氏が会長職にあったとしたら、その路線や思想性は大きく違ったものになっていただろうとの観測もありました。逆にいえば「青年文化祭」などのダイナミックなものではなかったということだそうです。恐らく静かな弘教、教学の研鑽とかいうようなものをイメージされていたようですが、 このいわば「運動の ダイナミズム」という面に関しては、どのようにお考えでしょうか。

運動が静か動かはあまり関係ないような気がします。ランボーさんもご存知のとおり、成功者の成功の理由・秘訣なんていうのは皆、後付です。その時は無我夢中で成功したいと思っていても成功するかどうかなどわからない。たまたま池田センセは成功したからダイナミックな活動を展開した池田センセということになっているだけで、石田氏が別な方法でやっていても多分結果は変わらなかったと思います。四力が合致すれば大聖人仏法が広まるのは当然の結果です。池田センセはさも自分が、学会が大聖人仏法を広めてやった。風なことをいいますが、逆でしょう。大御本尊が病人と貧乏人だらけの草創期の創価学会員たちに功徳を与えあげてようと、広めさせてくれたのです。宗門に向かって学会に感謝しろ。などと言うのはお門違いです。学会こそ大御本尊に感謝し御本尊を守り伝えてきた宗門に感謝すべきなのです。学会は自分達のチカラで大きなったのでも、池田センセのお陰で大きなったのでもない。大御本尊のお陰で今の学会があるのです。それを忘れた今後の創価は何をしてもダメなのは明白です。

話が色々それて回答になっていないかもしれませんがご容赦ください。

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