題目は師子吼なり。
満々たる生命力で
病魔を打ち破れ!
価値創造の日々を
生き生きと賢く!
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「題目は師子吼なり」
経王殿御返事の一文です。
たまぁ~には、御書を引用するんだね~
だけど、引用するなら正しく引用してもらいたいなぁ
◆南無妙法蓮華経は師子吼の如しいかなる病さはりをなすべきや
正しくは↑ こうでしょ?
「南無妙法蓮華が師子吼」であって、
単なる題目が師子吼じゃぁない。
南無妙法蓮華経ってのは題目と同じだろ?って言う人もいるだろうが
経王殿御返事の全文を読むと、
上記の御文は単なる題目を南無妙法蓮華経である。
と言っているのではないと思う。
この「経王殿御返事」は全体を通して「題目」について述べられているのでなく
「本尊」について述べられている御書だ。
◆先日のまほり暫時も身をはなさずたもち給へ
◆日蓮守護たる 処の御本尊をしたため参らせ候事も師子王にをとるべからず
◆日蓮がたましひをすみにそめながし てかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし①
その上で、
◆法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり②
と書いてある。
特に重要な部分が上記の①の御文で、この御書の結論とも言える。
そう考えると、この御書に書かれている南無妙法蓮華経とは
題目のことを言っているのでなく
本尊のことを言っている。と解釈した方が正しいだろう。
そう読まないとこの御書全体の脈絡が合わない。
同じ御書で「南無妙法蓮華経」を、本尊といったり題目と言ったり
在家信者にそんなわかりづらいお手紙を大聖人が書くとは思えない。
なので上記②の「法華経の題目」とは、本尊のことと読むのがいいのだと思うわけだ。
なので、訳すとしたら
「題目は師子吼なり」ではなく
「本尊は師子吼なり」と訳す方が、本御書の内容に合致する。
「吼」の一字があるから「題目」と解釈するのは軽率だ。
御本尊を書き顕すこと自体が「吼」である。
そして、大聖人が書き顕した御本尊であるのだから
当然そこには「題目」の義も含まれる。
さて、解説はこのくらいにして、何が言いたいのかといえば
病気や病気以外にも苦悩しているいる人は
この御書に書かれているとおりに題目を上げてください。ってこと。
「大聖人の魂宿る御本尊」つまりはご本仏大聖人を信じて題目を上げる。
いつも書いていることが、具体的には
戒壇大御本尊(=大聖人)に「信」を取って題目を上げることです。
それが「師子吼」です。
大御本尊を捨ててしまってはいくら題目をあげても何も解決しない。
御書を読めば明らかでしょう。
また、勤行も五座・三座を基本にすることもおすすめします。
学会では、勤行は「助行だから」と
いかにも「助行」である勤行は重要視しなくていいような言い方をするが
これは、完全なる間違いです。
正行(題目)と助行(勤行)。両方揃って修行なのです。
正行・助行が正しく揃ってこそ正しい修行になるわけですね。
日寛上人は、正行(題目)を米や麺。助行を塩や酢に例え
塩・酢は米・麺に味をつけるためにあると言ってます。
諸天善神は題目の法味を舐めて力を増します。
あなたが諸天善神なら、味のうす~い麺(学会の勤行)と
ちゃんと味のある麺(五座三座の勤行)とどちらがいいですか?
また、諸天善神にご供養するならどちらの麺をご供養しますか?
そういうことです。
病気で苦悩している人の気持ちはよくわかります。
今は詳しく書きませんが私も同じです。
病気以外のことで悩んでる人も
騙されたと思って、大御本尊を信じ正しい勤行をしてみてください。
学会のいうインチキ本尊義、インチキ勤行をすてて見てください。
「経王殿御返事」にはこうも書いてあります。
◆つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし 、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし
創価のインチキ教義・化義を捨てることが「信心のけなげなる人」です。
本当に悩みを抱えてる人はまずは五座・三座の勤行と大御本尊への信を取ることから始めてください。
私を含め多くの学会員はそれで宿命転換してきたのです。それは事実です。
最後に、「経王殿御返事」は短い御書ですが大切なことが詰まっている御書なので
まだ読んだことがない方は、是非読んでみてくださいね。