創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

リコリスさんのコメントへの返信

まづは、コメントありがとうございました。

コメントへの返信が少し長くなりそうなので

ブログの本文に書かせてもらいます。

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ともあれ、今日はちょっとした疑問をぶつけてみました。

「去年の11月に御本尊の解釈が変わりましたね?」と問いました。

何1つ仏法について学んでいない状態なのでよくわかりませんが、

現在の学会の在り方が間違っていると根本では思っていますので、聞いてみたのです。

すると、「今の時代に合わせていくために変えた」と言うではありませんか。

僕は素人なので考えがおかしいのかもしれませんが、

もともと信仰していたものをいきなり改変した、ということですよね?

[今まで正しいと思っていたことは全て間違い]、

[改変したところで変わりはない]、ということなのでしょうね……

しかしですよ、僕からすれば、

[オリジナルを勝手に変更した、または大元から逸脱しているのではないか?]と思えるのです

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この部分は非常に大切な部分です。

本尊義変更肯定派の学会員が必ず口にするのが

時代の変化に合わせて教義も変更した。という理屈なのですが

ちょっと聞くとそれがいかにも正しく聞こえるわけです。

いままでの教義では時代に合っていない。

いつまでも時代遅れの教義を振りかざしていては世界に布教できない。

なるほどその通りだ。って思っちゃいますよね?

でも、コレこそが大間違いな主張なのです。

というか、完全なスリカエ論法。

なるほど、日蓮大聖人の仏法を広める手段としては

時代に即して変化していくし、時代の変化を捉えなければいけない。

大聖人も、四悉(ししつ)檀を説き

時代や国や人に合わせて法を説く事の重要性を言われています。

でもそれは大聖人の仏法を広める手段として変化に対応するというこであり、

広めるべき主体である大聖人仏法そのものが

時代とともに変わる。といワケではないのです。

大聖人も仏法に相違しなければ、

相手や時代に合わせた布教をしてもいいよ。と言っているのです。

仏法とは、普遍性と永遠性を兼ね備えているモノであり

仏法それ自体は不変なのです。

時代とともに変化するようなモノに

普遍性や永遠性がある道理はありません。

では、日蓮大聖人の仏法とは何を指すのかといえば

それは、【御本尊】に尽きるのです。

教学的に言うと「受持即観心」と言って

大聖人の仏法とは御本尊を受持する事が、

根本であり全てです。

つまり、日蓮仏法において布教されるべき主体は御本尊に他なりません。

その本尊が時代とともに変化する。

時代とともに変化しなければならない。

と現在の学会活動家の大半は主張しているわけです。

これは、明らかに仏法に相違しているわけですから

時代に合わせるもヘッタクレもないわけです。

学会員は、大聖人仏法における普遍性・永遠性を口にしながら、

大聖人仏法そのもである本尊を時代によって変えてよいと言っているわけですから

これはまさしく自語相違であり、道理に合わない矛盾です。

また、御本尊を変えたのではなく、御本尊に対する教義を変えたのだ。

という幹部・活動家もいますが

これは詭弁としかいえません。

そもそも、教義と言うのは本尊を説明するためにあるのであって、

教義によって本尊が変わる。というものでありません。

教義が先にあって、後に本尊が出来たのでなく

本尊が先にアリき。なのです。

その本尊から教義は生まれているわけです。

つまり本尊が変わらない限り、本尊に対する教義は変わらないのです。

それを時代に合わないので変更します。ってのは、

日蓮仏法でも何でもなく、単なる創価の都合に過ぎません。

学会活動家の多くが、こんなバカげた事を真顔で言う理由は、

大聖人仏法を知らない。または

創価の間違った思想を大聖人仏法だと思い込まされている。

或いは、大聖人の仏法より創価仏法の方が凄いと思っている。

このいづれかだと思います。

少なくても、自分が間違っているのを承知で

リコリスさんを創価にとどめておこう。

などとは考えていないでしょう。

大聖人仏法なんて糞喰らえ。こからは創価仏法だ。

っていうなら、単なるカルト宗教の信者だからどうでもいいのですが

創価の言っている事が大聖人の仏法だと思っているのなら

その学会員は、お気の毒としか言いようがありません。

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