まずはコメントありがとうございます。
議論も対論も私もブログでしようとは思いませんので
頂いたコメントへの感想を少し書かせてもらいます。
>さて、早速ですが、御書根本と言いながら、
どこにも御書の引用が見当たりませんね
毎回でありませんがは御書はたまに引用してます。
ただ、ブログなので対論するわけでもないので
御書の引用は面倒なので避けてます。
もちろん自分自身の発言は御書等に書かれいることを基準にはしてます。
というか、現在の学会幹部及び活動家の方の主張は
御書云々というよりも基礎教学が分かっていないと感じるものです。
つまり、御書以前の問題で、御書を引用するまでもないと正直思うわけです。
例えば、あなたの言われいる
>唱題行がそのまま自行化他になると言い切られていますが、
あなたが大事とされる大聖人の教え(御書)のどこにあるのでしょうか。
これですが、大聖人の題目は天台・伝教の題目と違い「事の題目である」というのは
基礎教学の部類です。事行の題目とは自行・化他に亘ることも御書に書いてあるとおりです。
そして三大秘法の開合を用いることをやめた学会教学ならば自行と化他に題目を分ける教義は用いないというの道理じゃないですか?一大秘法は用いないけど六大秘法を用いるのはおかしいですから。
>大聖人いわく「地頭の不法ならん時は我も住まじ」
この御書は、どう拝せばよいのでしょうか。
「謗法の地に御本仏はいない」としか読めないのですが。
まず、謗法の地に本仏がいないのなら、鎌倉時代の謗法の日本国に出現された大聖人は本仏ではない。ということになります。またそもそも末法は謗法の衆生だけですからその地も謗法の地になります。となると末法に本仏はいない。ということになります。
また、地頭は不法かどうか?を決めたのは僧宝であり法主である日興上人です。創価学会はなんの権利があって大石寺を謗法というのでしょうか?独立した宗教団体で勝手にご本尊に関する権能があり勝手な教義を作って何が悪い。聖教でいってました。つまり創価の教義を照らし合わせて大石寺を謗法の地と決めご本仏がいないと勝手に言ってるだけですよね。
で、御書を切り文して自分勝手な主張をあたかも御書に書いてある。と言ってうるだけです。つまり御書根本の主張をしているのではなく、自分達の主張に御書を合わせているだけです。。こうしたロジックは五老僧の末裔の身延の手口です。私から見ると現在の学会の主張こそ五老僧そのもで昔から変わらない手口にみえます。大御本尊を捨てるというのも五老僧の時代から変わらない邪宗の手口です。いままさに学会はその道に進んでいます。
> あなたいわく「大聖人の弟子として、ひたすら唱題行に励み、
幹部も組織もダメな学会の活動はしないから彼らと一緒にしないでね」
そりゃそうです。貴方は謗法とはどんな行為か当然ご理解していますよね。
大本尊を受持しないことが謗法ではないというような
学会幹部や活動家と一緒にされたら堪りません(笑)
>義務ではなく権利なので、お休みするのは結構ですが、
学会活動の「いや」を、即「間違い」へと転換・正当化し、
大聖人ご在世当時の修行を拒否した弟子たちのように、
組織や世間へこっそり我流の愚痴を拡散してませんか。
この発想が私には理解できません。
我流はむしろ創価幹部・活動家の方でしょう?
学会活動が大聖人仏法の修行だと?
リアルでもそうですが、学会活動が大聖人仏法の修行であるとう論拠を説明しません。
あなたもそうです。最初に御書を引用しないと言われまししたが
貴方も何の論拠なく大石寺を謗法の地だと言い
学会活動を大聖人仏法の修行だという。
そしてそうではない。という私の主張を御書を引用してないから我流と結論づける。
どうして学会活動家の方はみなさん
このような自分勝手な発想になるのか正直理解できません。(すみません)
それと、学会活動が「イヤ」なわけじゃないですよ。
今まで一度も「イヤ」だと思ったことも言ったこともありません。
ただ大御本尊を捨てたことにより学会活動は謗法の活動になりました。
なので「やらない」ということです。
もし、今の学会が「大御本尊を大石寺から何が何でも取り返す」というならば
いつでも学会活動しますよ。
もっともそうなれば、選挙だの新聞啓蒙だのと
ツマラナイ事をしている場合じゃありませんが。
>議論するつもりはありません。
互いにさまざま理屈をつけても、
所詮ここは「感情論」の場なのですから。
私も議論はしませんよ。
結局貴方は、「こいつの言ってることは感情論であって大聖人の教えじゃないよ」と
このブログの読者に印象づけたいだけなんだなぁって感じます。
これも学会活動家がよく使うパターンなので慣れっこですが。
最後にもう一度言わせていただきますが
今の学会活動家には御書による破折は必要ないのです。
それ以前の基礎教学もおぼつかないし
文証以前に一般常識的な理屈だけで
間違っている。事が論証できてしまうのです。
身延や顕正会と同じです。
御書などいりません。
それほど、今の創価教学というのは軽薄で中身がないということです。
学会の教学も地に落ちたとういう事でしょう。
所詮、ご本仏から離れて邪宗になればこの程度です。
それが残念でなりません。