大河さん。まずはコメントありがとうございます。
貴殿の下記のコメントですが、さっぱり要領が得ないので
ブログでちょっと書かせてもらいます。
> 全会員に向けて、
> 「板曼荼羅でなく、久遠元初の法」であると
> 平成5年5月3日に指導されております
とだけ書いてありましたが、それは私も知っています。
が、だから何なんでしょう?
まさか池田名誉会長がこうやって指導しているのだからコレが正しい。
なんて事を言いたいわけではないですよね?
池田先生の言うことは全て正しい。
などという論法が通用するのは創価の活動家の中だけです。
この論法では破折はおろか、折伏すらできないのでは?
そもそもこの【久遠の法】などと名誉会長が言い出したからこそ
ご本仏を捨てるという暴挙を創価はしでかしたわけです。
平成5年当時、名誉会長は既にボケていたのか?
それとも端からこの程度の教学力しかなかったのか?
はたまた魔にたぶらかされたのか?
どっちにしてもこの【久遠の法】などというセンセの我見が
諸悪の根源であると断言してもいいです。
貴方は、この【久遠の法】なるものはどこの存在しているのか?
明確にお答えできますか?
この質問は多くの学会員にしましたが、誰ひとりマトモに答えられる会員はいませんでした。
私の考えは久遠の法は久遠の仏の色心に備わっていると思っています。
文証としてわかりやすいのは
●釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御座せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき
●至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時ぐじ・不思議の一法之これ有り。之を名づけて妙法蓮華と為す云云
などあります。
また、仏法とは三宝帰依が根本ですが、この三宝の主体は仏宝なのです。
なぜなら仏宝には必ず法宝と僧宝が含まれるからです。
法宝・僧宝には必ず仏宝が含まれているとは限らない。
ですから仏宝に帰依するのです。
仏宝でなく法宝に帰依するのは仏法からかけ離れたが外道の教えです。
三宝一体の体は仏です。
なので仏の体を離れて【久遠の法】などというの仏法は存在しません。
仮に仏の体を離れた所に【久遠の法】なるものが存在していたとしても、
それは単なる理の上のことであり、大聖人の仏法ではありません。
また、貴方は【久遠の法】とは南無妙法蓮華経である。と言ってます。
ではその南無妙法蓮華経の体とは何ですか?
なんでも南無妙法蓮華経と言えば済むと思っているのでないですか?
南無妙法蓮華経の体が何かを理解することが大切なのですよ
それに対し日寛上人は明確に
南無妙法蓮華経の体は御本尊であり
ご本尊の体は大聖人である。と言われています。
つまりセンセの言っている
◆「板曼荼羅でなく、久遠元初の法」である
などというのは本末転倒以外の何もでもありません。
板曼荼羅(御本尊)なくして久遠の法など存在しないのです。
その板曼荼羅を軽賤することは仏を軽賤することであり
謗法であることを理解されるべきです。
それとも、あなたにそれを覆すナニかがあるのですか?
あなたは今回のコメントを、「お知らせしただけ」と
ご自分のブログで言っていますが
折角、お知らせしてくれたのだから
もう少し詳しく解説もしてもえないですか?
まぁ、ここは対論の場ではないので無理強いはしませんが
【池田先生が言っているから正しい」というロジックを使うときは
活動家の中だけにしておいたほうがいいと思いますよ。
老婆心ながら忠告をさせていただきます。