創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

『如在の礼』・2022夏。

暑くなってきましたね~。もう朝から暑いです。海でも川でもプールでもいいから水辺が恋しい季節です。

そんな感じで梅雨明け後から我が家の御仏壇に団扇を置いています。今年、初めお仏壇に団扇を置きました。もちろん自分のことを扇ぐわけではないですよ。御本尊様専用の団扇です。昨年の事ですが御僧侶から『如在の礼』という話を聞きました。創価では聞いたことなくて、創価版の仏法大辞典にも掲載されいない言葉です。一般的な意味としては「神仏が目の前にいるかの如く礼を尽くす。」という事です。法華講にとっては自宅の御本尊様を生身の大聖人と思って尽くしていくということですね。日興上人は大聖人が御入滅後も御本尊の前に御影を置き御供養の品々を都度その御宝前にお供えしています、日亨上人は、『(第二祖日興上人が)些細の供養も一々宗祖御影の見参に供へて、如在の礼を本仏大聖に尽し給ふ』とこうした日興上人の姿を『如在の礼』を尽くした姿であり、そうした心で御本尊に対していきなさいと御指南されています。以前、仏壇を荘厳するという話をしましたが例えばお仏壇やその周辺を掃除するのはただ単に部屋が散らかっている、汚れているいるから掃除するのではなく大聖人様を散らかっているような部屋、汚れているような家(仏壇)に置いておかれるのは申し訳ないと気持ちが大切なんですね。

★過去記事はこちら▶信は荘厳より起こる(生ず) - 創価ダメだしブログ

確かに創価時代も御本尊様は人法一箇で大聖人でもある。とは教えてもらったし自分でもそのように教えてきたけど当時の自分を振り返ればそれは言葉だけの稚拙な指導だったと反省しきりです。お給仕もまともにできなかったし、仏壇や仏間の掃除も単なる世間一般的な単なる掃除という感覚で『如在の礼』を尽くすような気持ちはなかったと思います。以前から書いていますが創価や学会員は御本尊が仏様・大聖人であるというな感覚が希薄なんですよね。なにせ池田センセが言うには御本尊は「幸福製造機」であり「単なるモノ」ですからね。学会員は宇宙の法則を図顕化したのが御本尊であるといいます。そこには御本尊が仏様であるという考えがありません。それに加えて伝統的な化義については「単なる形式で信心の本義ではない」ときてるものだから本当にお給仕などは教えてくれないし、教えてくれたとしても適当だし煩く指導されないので分からないし覚えられないのです。ですから実にお恥ずかしい限りですが正宗に移籍してから色々と学ばせていただいています。それは凄く有難いことですし自身の信心深めることができて感謝しています。信心を深めるのは教学だけはダメだということも分かりました。いくら頭で「人法一箇」が分かっていても実際に御本尊を「人法一箇」として敬う心と行動がなければ分かっていない事になります。さて、御僧侶からの『如在の礼』の話の時に、「夏の暑い日などは団扇などをお仏壇にお供えし御本尊様に不便をおかえしないようにすることが大切です。」との話があり、それで今年の夏はこうして団扇をご用意させていただいた次第です。ただ今は、意識してお給仕などをしないと御本尊に対して欠礼することも多くまだまだ『如在の礼』が足りない部分がたくさんあり反省することばかりです。いつかは無意識のうちに御本尊に対して心をこめた礼を尽くせるようになりたいと思っています。因みに今年の冬は御本尊・大聖人が寒くないように『電気カイロ』をお供していました。火を使わないので火災の心配はありません。もちろんアマゾンです(笑)

 

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やっぱり、そっくり!統一教会と創価学会。

安倍元首相銃撃事件を機にわきあがった【統一教会問題】が連日のようにメディアを賑わしている。いつの間にか【世界平和統一家庭連合】の教団名を変えていたが、みんな【統一教会】で統一しているのが草だがそっちのほうが分かりやすい。創価活動家時代に一度だけ統一教会信者を折伏したことがあるが(入会には至らなかった)当時は今みたいにネットも普及していなかったから統一教会のことで知っているのは、桜田淳子合同結婚式霊感商法、それとマインドコントロール(MC)の言葉が一般的になったのも統一教会絡みだったと思うがそれくらいの知識しかなかった。そんなわけで最近になって統一教会のことを色々と調べてみると改めて「創価とそっくり」と感じる。新興宗教団体はどこも似たり寄ったりの部分はあるが数ある新宗教の中でも創価統一教会はまるで教祖が兄弟かと思う位似ている。例えば文鮮明池田大作も数多くの名誉称号などを集めている。またゴルバチョフ氏などの著名人とも会談している。文鮮明夫妻は会員から「お父様・お母様」と呼ばれている(呼ばせている)が池田夫妻は創価民にとっては「先生と奥様」である。噴飯モノの超人的伝説を持っているところもよく似てる。教祖・指導者がこれだけ似ていると当然その組織も似るもので、フランスでは両教団仲良くセクトに指定されていた。(現在は創価セクトから除外されている)統一教会は「統一家庭」が創価は「創価家族」がキーワード。創価の集金システムも会員に対する反強制の指導や同調圧力、会員同士を競わせるやり方。統一教会は罪(罰)論で信者を脅し創価は「功徳」論で信者を騙すという手法、罪や功徳と関係ない二束三文の品物を信者に購入させるところもそっくりである。唯一違うのは統一教会が一気に奪略するのに対し創価は長期間に亘って搾取するという集金方法くらいか。また統一教会は「献身」というほぼ奉仕活動をさせているらしいが創価だって「学会活動」という名目で選挙や聖教拡販、新聞配達などのほぼ奉仕活動を指導している。そして何よりも政治に深く関与するという組織の在り方。ここが一番の類似点であり今回の統一教会問題の根底もそこにある。政府は長らく宗教団体の政治的活動は政教一致に抵触しないとの見解を示してきたが、それはただ単に宗教団体からの票が欲しかっただけではないか。票を貰えばその見返りはある。政治家は支持者の為に動くのだからそれは悪い事ではなく当然のことである。それで本当に憲法に定められている政教分離を遵守しているとは言えない。話を元に戻すと、私が一番、統一教会創価が似ていると思うところは他宗を悪用しているところである。文鮮明キリスト教池田大作は大聖人仏法を悪用して会員を騙しているとこが一番の類似点だと感じた。聖書を勝手に解釈した文鮮明と御書を勝手に解釈した池田大作。そうした既存の宗教を悪用して会員を騙す。二人とも、キリストや日蓮大聖人を差し置いてその上に君臨している。だけど多くの信者は自分をキリスト教徒・仏教徒だと思い込んでいる。ただの文鮮明教・池田大作教なのに。私はここが一番の類似点であると思っている。さて、こういう事を言えば創価サイドの人達は、「創価学会統一教会を一緒にするな」「単なるコジツケだ」と反論するだろう。それならそれで一向に構わないが、創価サイドの活動家からも納得いくような反論もないし、「やっぱり!そっくり!創価学会!」と思わざる得ないのが正直な感想である。多分、創価民の中にも私と同じような事を感じている人もいると思う。やはり100年足らずの短期間に大教団になるにはそれなりの共通点・法則があるんだなぁ。

 

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五老僧超略伝⑤蓮華阿闍梨日持

蓮華阿闍梨日持は五老僧の中で最も謎の多い人物です。建長2年(1250)駿河国静岡県庵原郡松野の生まれ松野六郎衛門の子息とされてますが定かではありません。しかし松野家と重縁ある一族の生まれであることは間違いないでしょう。幼名を松千代といい幼くして同国の岩本実相寺に入り出家しました。正嘉2年に大聖人は実相寺経蔵に入られたので当時9歳の松千代は大聖人に会われたことがあるかも知れません。当時は実相寺の近くの四十九院に四歳年上の日興上人がいたことから、日興上人の『本尊分与帳』に「日持は日興の最初の弟子也」と書かれているように松千代は日興上人に師事しその後日蓮大聖人の弟子となったと思われます。身延日蓮宗では日持が日興上人の弟子だったことは認めていませんが、日持を大聖人の許に手引きしたのは日興上人であると見解は概ね一緒です。日興上人が大聖人に弟子入りしたころ松千代は得度して甲斐公と名付けられ叡山に遊学し天台密教を学びますが理同事勝の釈に疑義を抱き実相寺の寺主の勧めで鎌倉に大聖人を訪ね改宗し門下にならんことを請い許され日持という名を受け賜りました。文永7年(1270)日持21歳の時とされています。(入門時期については文永7年以外にも諸説あります)弟子入り後の日持の活躍としては松野の大夫房日教、四十九院の治部房賢秀日位、松野次郎三郎を教化したことが挙げられます。また日位と同じ四十九院の日源も日持が教化したのではないかと言われています。熱原法難の際には、日位(賢秀)と日源(承賢)は当時四十九院寺内に居住していた日興上人・日持とともに四十九院の二位律師厳誉に住坊と田畠を没収さて追放されると難に遭っています。また大聖人の御書である「持妙法華問答抄」は日持が執筆したという説もありますが確かな証拠も説得力もないことからこの説は身延派においても否定しています。熱原法難後の日持の消息は定かではありませんが、恐らくは日興上人と共に身延に帰り大聖人のもとで暮らしていたと思われます。さて日持は身延山から下山する大聖人に池上まで同行し大聖人の御遷化にも立ち会い御葬送の時は日郎と共に前陣に連なっています。『御遷化記録』に判もあるので百箇日法要にも参列しています。大聖人御入滅後、身延の地で日向の謗法により日興上人と日向・日円の対立が厳しくなり日興上人は身延を離山しますがこの頃に日興上人から離反する僧俗が多く現れ日持も日教・日位など自分が教化した者たちと共に日興上人に違背しました。その頃、日持は松野に帰り近辺の弘教をしていたようです。正応元年6月8日に大聖人の七回忌を偲び池上本門寺に大聖人座像を安置しその座像は現在では国宝指定されています。また松野次郎三郎の外護をうけ松野に妙本山連永寺を建立。連永寺はその後にお万の方によって静岡・沓谷に移し貞松山連永寺とし日持の遺徳を顕彰し、松野の寺院を永精寺と改めました。現在では日持所縁の寺院は貞松連永寺のみで日蓮宗になっています。さて、日持は連永寺を大夫房日教に付しここから異国での布教を目指すことになります。その出立の日は諸説ありますが、その出立の日を日持の命日に定めています。松野を出立した日時は東北・北海道と進みその後、沿海州から満州吉林より山海関を超え永平・正定に進み北上して蒙古に入りウランバートル・カラコムに入ったと伝えられています。北海道の渡島半島の西南突端恵山のふもとに椴法華(とどほっけ)の名前があるのは【渡唐法華】の意で法華経の僧侶が唐土に渡ったという処からつけられています。因みに函館市椴法華港という港があり、この界隈は昔は椴法華村だったそうです。

 

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大石寺御登山報告(2022年7月12日)

先日、今年3度目の大石寺御登山をしてきました。今回の同行者はU元副部長とO元地区Lです。例によって富士宮の「流れ寿司・魚がし」さんで早目のランチをすませ正午前の着山です。登山事務所で手続きと御供養を済ませ御開扉までの時間があるので今回は初めて妙蓮寺さんに参詣してきました。それについていずれまた記事にしたいと思いますが、妙蓮寺は日蓮正宗に三つある本山格のひとつで、南条時光殿の邸宅に建てられた大石寺のすぐ近くの富士五山のひとつ数えられている寺院です。妙蓮寺をひと回りしていつもの新町駐車場で車を止めて、お樒と書籍を購入。今回は『ご指南集30』他4冊の書籍を購入してきました。そのあと3人で裏門をくぐり奉安堂に向かいます。4月の登山の時に修繕をしていた御水屋もとっくに修繕が終わっていました。

客殿の前を通り鬼門を抜けるといういつものルートで歩を進めます。

今回は珍しく広場のほうから客殿を撮影してみました。

参道の木々も茂り緑も濃くなって空は曇り空ですが夏って感じです。参道を御影堂に向かう途中、法祥園の裏手の小道に初めて足を踏み入れました。すると、日応上人の石碑を発見。

過去12回御登山しているのに初めって発見って・・(笑)日応上人好きの私としたことがなんたる失態でしょう。(笑)

★過去記事はこちら▶日應上人。 - 創価ダメだしブログ

 

その後、奉安堂にて御開扉を受け戒壇大御本尊に約3カ月にぶりにお目通りさせていただきました。法主上人と共に勤行・唱題をさせていただく事ができるだけで有難いことです。池田大作先生は、私のような末端のゴミ会員と勤行なんてしてくれませんからね~(笑)世界の池田大作先生のような「権威のある方」は創価学会の末端会員ごときが一緒に勤行どころかお会いすることすらできないような御方なので仕方ないですが、御法主上人はこんな一信徒の私と一緒に勤行・唱題してくれて祈ってくれます。本当に有難いです。そしてなによりも生身の大聖人様である戒壇大御本尊様に直接お題目の御供養を申し上げることができるなんて最高過ぎます。顕正会員も遥拝勤行なんかしていないで早く正宗に帰伏して直接大聖人様にお題目を申し上げられるようになった方がいいですよ。そんな至福の時間を過ごし奉安堂から退室すると外は雨になっていました。この日は朝から曇天で富士山がその雄姿を現すことはありませんでしたが、御開扉のあとはいつも心は晴天です。駐車場に戻り仏具店で前から買おうと思っていたお供物の下に敷く和紙と小さい毛ばたきを購入しました。

毛バタキは御本尊の軸の部分の埃を払うのに使う予定です。さて帰路では高速道路で事故渋滞に巻き込まれました。約2時間の渋滞。久しぶりにここまで本格的な渋滞に巻き込まれましたが、こういうアクシデントは往々として「いい思い出」になるものです。やっぱり御登山は楽しいですね。創価の「結集ノルマ地獄」と比べてば、まさに仏界です。次回は秋ごろ御登山したいと思っています。コロナが落ち着いていたら御登山の前に告知しますのでもしお会いできる読者の方がいましたら御山でお会いしましょう!

 

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『化義抄』を学ぶ⑬(57~60条)

記事中の「赤文字」は『化義抄』から「青文字」は日亨上人の『註解』、「太字」は日達上人の『略解』からの引用文といたします。

 

【第57条】法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背の別名なるが故なり、門徒の僧俗の中に加様の人ある時は再三私にて教訓して用いずんば師範の方へ披露すべきなり、其の義無くんば与同罪遁れ難き故なり云云。

 

本条項は同門の僧俗に謗法が有った場合の対処方法についての御指南です。信心をしている人は基本的には大謗法の人ではありませんが【法華宗の大綱の義理】に背けば大謗法となります。【法華宗の大綱の義理】とは戒壇大御本尊への帰命・御本仏である大聖人への尊信・唯受一人血脈相承への随順という大聖人仏法の根幹ともいえる化法のことでこれらの化法に対して否定・違背することが同門中の謗法の定義です。このような人を見かけたら本人に再三注意しそれでも治らなければ師匠である御住職へ伝えなければ自分が与同罪となってしまう。ということです。謗法を犯している相手が御住職などの御僧侶の場合も同じです。本人に注意し治らなければ宗務院から法主上人に伝えてもらうのです。御住職が謗法などあり得ない話のようですが過去の正信会のような例もありますから相手が誰であれ謗法に対しては厳格でなければなしません。とはいえ、◆謗法に上中下雑の謗法あり(顕謗法抄)、◆謗法の者にも浅深軽重の異あり(阿仏房尼御前御返事)、と大聖人が言われているように謗法にも浅深軽重の違いがあります。例えば十四誹謗でも、「浅識」と「計我」或いは「懈怠」と「不信」ではその意味合いは違います。ですから同門の人に対しなんでもかんでも「十四誹謗だ」「謗法だ」と安易に言ってはいけません。大聖人も

◆軽罪の者をばせむる時もあるべし又せめずしてをくも候べし、自然になをる辺あるべしせめて自他の罪を脱れてさてゆるすべし、其の故は一向謗法になればまされる大重罪を受くるなり、(阿仏房尼御前御返事)

と小さな謗法は責めずに許すこともある言われています。これは小謗法・雑謗法を責めることによって相手が大謗法を犯すことがあるからです。例えば、お寺に参詣しない事を厳しく責めることによって相手が正宗から退転し創価や顕正に移籍してまう場合などが考えられるからです。同門に対する姿勢として日亨上人は本条項の註解で

◇対内的には宗綱に違反して信行の途立たざるが謗法なれば謗法の名は至つて重く謗法の罪は門徒の極刑なり、自ら律して針「石+乏」(へん)に供するは随意なりといへども・濫に他人を憎みて謗法の罪名を被らしむるは・若実若不実却つて其重罪を我身に招く恐るべし、近来間々巷途の説に聞く・何誰は何を為したり謗法なりと・悪言謹まずんばあるべからず(註解65条)

と御指南されています。門徒にとって「謗法」という言葉は非常に重く他人(同門の人)に妄りに「謗法」などと言うのは理由はどうであれその罪は同門の人を謗法といった者の罪になるのです。往々として同門者を謗法扱いするのは慈悲からではなく相手を憎む一念から発せられることが多いと思われます。しかしどんな理由であれ同門者が【法華宗の大綱の義理】に違背していなのに軽々に同門の人に謗法という言葉を使ってはいけない。そのような事を言う人の方が謗法なのです。法華講員として同じ法華講員を謗法呼ばわりすることは厳に慎まなければなりません。また仮に謗法があったとしてもあくまでも本人に直接注意すべきであり陰で非難することも本条項では禁止しています。その上で本人に反省の色が見えなければ、その人の師匠(御住職)に伝えるべきあり他者が断罪すべきではありません。

 

【第58条】門徒の僧俗の中に人を教えて仏法の義理を背せらるる事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失なり、自身の謗法より堅く誡むべきなり。

 

本条項は自分自身が謗法を犯すよりも他人を教唆する罪の方が遥かに大きいことを御指南されています。何故なら他人を巻き込むのは自身の謗法に破和合僧の五逆罪(五戒)を重ねるからです。

◇「人を教て仏法の義理を」等とは・僧俗自身が他の僧俗を教唆して、大は宗旨の大綱に背く如き謗法を行はしめ・小は宗門の信条を違ふ如き非行を為さしむる(註解67条)

当宗の本尊義等の根本となる宗旨の大綱はもとより、当宗の化義や信条・規則等に関する違背も含め他者を誑かし他者にも違背させる行為は大謗法です。また

◇は自ら直接に言説を以てしたるものは、其罪重きこと勿論なれども・或は態度を以つて暗示を以つて教唆を加へたる者亦此に準すべし、仮令教唆の意志なしといへども・信徒を有する僧分・弟子を有する僧分・信徒を有する講頭等の非徳が冥々の間に他を悪感化する其罪又己に帰することゝ知るべし(註解67条)

言葉だけはなく態度や暗示的表現で教唆してもその罪は同じです。まさに池田大作が会員に対して行った言動は本条項に違背する大謗法の大罪なのです。また、ネット上で正宗や法主上人・御僧侶や講中の人達の批判をしている法華講員を時折見かけますが、それもまた本条項に違背する教唆の罪に当たります。それが実であれ不実であれまた教唆する意思がなくても関係ありません。ましてや自分の宗門への不満や不平を正当化し誰かを味方に付けようなどと言う心根からの発言は言語道断です。そのような人は宗門や法華講に対する不平・不満があるのでしょうがそれをネットで拡散するという事は他人を教唆していることになり、それは大謗法の上に五逆罪を重ねる池田や浅井と同じことになるので慎んだ方がいいでしょう。

 

【第59条】法華宗の真俗の中に知らずして仏法の義理を違え化儀を違うる事、一定辨えず違えたらば、罰文起請を以って義理を違うると云わば免許有るべきなり云云。

 

本条項は自分でも知らないうちに(自覚がなく)犯してしまった謗法は一度なら罰文起請を出せば許されるという意味です。罰文起請とは「もう二度としません」という起請文のことです。誰が許すのかといえば法主上人です。なぜなら仏法の義理である化法を正しく相承されているのは御当代猊下であり故に化義を決めることができ裁定できるのが御当代猊下だけだからです。52路線において教義逸脱した池田創価を当時の日達上人が許したのは彼等に謗法の自覚がなくかつ池田が謝罪したからであり本条項に則した措置でした。ところがこの日達上人の措置に従わなかったのが正信会僧侶達なのです。また池田創価日顕上人が破門にしたのは、52年路線の時に池田以下創価の首脳陣が「二度と教義逸脱をしない」と起請したのにも関わらず同じ過ちを犯したからです。2度目は「知らなかった」では済まされません。つまり創価破門は創価側の確信的犯行だったわけです。このように正信会の件にしても池田創価破門にしても時の猊下・宗門は理由のない処分ではなく正当な理由があったのです。本条項を知れば嫉妬だの怨嫉だのと言うのは池田創価のプロバイダであることがよく分かります。

 

【第60条】遠国住山の僧衆の中に本尊、守り、有職、実名等の望み有らば、本寺住山の時分たりとも田舎の小師の方へ、本寺に於て加様の望み候、如何が為す可く候やと披露して、尤も然るべき様、小師の領納を聞き定めて、本寺に於いて、加様の望みを申す時田舎の小師に談合を致し、加様の望みを申され候時、、諸事の望みに随って本寺に於て免許候えば、信の宗旨に相応して事の宗旨の本意たり、其の義なき時は理の宗旨、智解の分に成り候て爾るべからず云云。

 

本条項は師弟の筋道を示されたご指南です。本文の趣旨は本山で勤務していたとしても本山への要望は直接本山にするのではなく所属寺院の御住職を通して願い出るべき旨を御指南されています。在家信徒においても同じで本山に何か願い出る時は最初に所属寺院の御住職に許可を得てから本山に願い出る。こうした師弟相対の姿が当宗における事の一念三千でありそうした信心に功徳がでるのです。それを面倒くさっがて或いは効率面でそうした筋道を外し自分勝手に行動するのは理の一念三千であり大聖人の仏法でありません。本条項とは無関係ですが、「時間がかかって非効率」といって五座三座の勤行を方便自我偈の一座勤行にした池田創価はまさに理の一念三千でそんな勤行に事としての功徳は顕れません。

 

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御講拝読御書研鑽(2022年7月・四条金吾殿御返事)

此の経をききうくる人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希なるなり、受くるはやすく持つはかたしさる間成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、「即為疾得無上仏道」は疑なし

 

今月の御講拝読御書は別名『此経難持御書』といわれる1ページほどの短い御消息ですので全文拝読してみてください。【此経難持】とは法華経・宝塔品に説かれている言葉で、「此の経は持ち難し」と読み六難九易の説法をもって滅後(末法)に法華経を持つことの難しさを説いています。因みに六難九易は付属有在・令法久住とともに【宝塔品の三箇の勅宣】といわれます。六難九易とは枯草を背負って大火に飛び込んでも焼かれないとか、空を掴んで空中散歩するとか常識では絶対に不可能と思われる九つのことを挙げて、それらすら簡単に思えるほど末法法華経(大御本尊)を持つことの方が難しいという説法です。麻原尊師の空中浮遊や大川総裁の霊界との交信なんて屁でもないくらい大御本尊を受持するのは難しいのです。その理由は末法で大御本尊を受持すれば必ず難に逢うからです。では何故難に逢うのでしょう。それは自分自身の過去からの謗法が原因です。勤行のときに読む(創価は読みませんが)寿量品に【飲他毒薬】という言葉がありますが、我々のような末法に生まれてきた衆生は過去世から謗法の毒薬を飲み続けてきたいわば「謗法ドラック中毒者」なのです。そんな我々が大御本尊を信受することによって謗法ドラックを止めようとしているわけです。テレビドラマなどで麻薬中毒の人が薬断ちして苦しみもがいているシーンを見たことが有るかもしれませんが、それと同じで大御本尊への信仰によって「謗法断ち」をする過程では苦難に遭遇するわけです。また、これは私自身の体験でもありますが抗がん剤治療って「もう嫌だ」ってくらい本当に苦しいのです。でもそれを途中で止めたら治らない。薬物も癌も最初は痛くも痒くもありません。薬物に関してはむしろ気持ちが良くて幸福感すら感じるのでしょう。自覚症状が無いから何とも思わないけど確実に体を蝕んでいき最後は地獄の苦しみのまま死を迎えます。謗法もこれと同じで痛くも痒くもない。自覚症状もない。でも放置すれば最後は必ず無間地獄の苦しみを味わのです。それほど「謗法ドラック」「謗法癌細胞」は恐ろしいのです。それを治療し仏であるという人間の本来の姿である健康体に変えていくのが妙法の良薬である戒壇大御本尊です。この良薬を服用するとその反作用として過去世の謗法の反作用として苦難に逢いますがその苦難こそ正法の良薬が効いているという証拠でもあるのです。故に大聖人は、

◆今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり(御義口伝巻上)

と教えて下さっているのです。ここで苦しいからと言って大御本尊への信を止めてしまえばまた「謗法ドラック中毒」へ逆戻りし、「謗法癌細胞」が再発してしまう。だからこそ大聖人はさる間成仏は持つにあり】と私達を励ましてくださっているのです。謗法の種類・度合いによって自身にかかる苦難の種類・度合いは人それぞれ違いますが、誰であれ何であれ大御本尊を受持する人がそうした苦難に逢うのは過去からの謗法罪障が消滅し本来誰しもが歩める成仏への道に戻るための苦難・苦痛なのです。この法理について大聖人は、

◆我等現には此の大難に値うとも後生は仏になりなん、設えば灸治のごとし当時はいたけれども後の薬なればいたくていたからず。(聖人御難事)

といわれています。この法理をまた「転重軽受」の法門ともいいます。四条金吾じゃなくても私達は信心をしていても苦しい事や辛い事に遭遇します。それでも戒壇大御本尊を信じ頼りにし唱題行を根本に退転することなく大御本尊を信受し続ければ必ず幸福になれる。成仏できます。大聖人は本抄を通じてそのことを御教示してくださっているのです。

天台大師の云く「信力の故に受け念力の故に持つ」云云

 

 

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2022年参院選結果。公明比例票は笑劇の618万票。

参議院選挙の投開票が終わり全ての議席が決まりました。自民が大勝し立民が後退。国民も伸びず、維新も議席は増えたけどそこまでの勢いを感じなくて野党は全体的にパッとせず、強いて言えばれいわ新選組が健闘したかなという感想で、「ねじれ国会」推進派の私としては戦前の予想通りだとはいえ少しガッカリしました。これでまたしばらく一般庶民は高い税負担を課せられ耐乏生活が続くことになりますね。投票率は今回も約半分ということで特に20代を中心に若者が選挙に行かないといういつものパターンです。まぁ私も20代の頃はそんな感じでしたから理解できますが今の日本をこんな風にしてしまったのは若かりし頃の私のような選挙行かない民です。選挙に行ってもすぐに何かは変わりませんが行かないと未来の自分を苦しめることになるかもしれないと経験者であるオッサンとして選挙行かない民の若者にアドバイスしておきます。また改憲勢力が2/3の議席を取ったので憲法改正は進んでいくでしょう。私は改憲には反対ではないのでそれはそれで特に問題視はしていません。自民党改憲案は酷いものですが憲法改正の時は国民投票ですからそれほど心配はしていません。ガーシーや生稲晃子が国会議員になるのは納税者としてやや不満ですがそれも民意ですし彼等が立派な議員になる可能性もゼロではありません。ただその反面で真剣に勉強し活動していると思われる候補者が落選してしまったのは残念でもあります。だたガーシーが政界の裏側をYouTubeで暴露してくれるのではないかとちょっと楽しみにはしています。その時にはぜひ公明党議員の裏の顔を暴露して欲しいモノです。(笑)注目していてた岡山選挙区では創価公明に反旗を翻した小野田さんが圧勝。小野田氏を落選させようと躍起になっていた創価公明の思惑通りにならず喜ばしいことです。そもそも創価公明に自民党候補を落選させる力などありませんから当然の結果です。小野田氏を落選させようと画策していた創価民達も自分達の無力さを思い知ったでしょう。私が男子部活動家時代も亀井静香氏や平沢勝栄氏を落選させようと頑張りましたが全く歯が立たなかったことを思い出します。(笑)それはそうと他の自民党候補も小野田氏を見習ってほしいですね。創価公明の力を借りなければ当選できないような人は自民党ではなく、自明(みん)党ですよ。自明党議員が党内に増えれば本来の自民党ではなくなります。そうなれば自民党支持は離れていってしまい自民党の力は衰退します。そんなことは当然分かっていて公明を利用しているのでしょうが小野田さん圧勝の結果を機に自民党内でも公明党離れの流れを少しずつでも形成していって欲しいと期待しています。さて、「選挙は信心」「選挙は広宣流布」の創価民にとって一番重要なのは公明党の比例獲得票ですが、今回はなんと笑劇の618万票でした。従って比例の分の1議席を減らす結果になりました。個人的には600万を切るかも知れないと予想していたので健闘したと言ってあげてもいいのですが、目標はいくつでしたっけ?そうそう800万票でしたっけね。全くかすりもしない完敗といったトコロですね。前回の参院選が653万だから更にそこから減少。このままだと次回の衆院選でも700万を切る可能性が高いですね~。自民党とバーターしておいてこの結果ですから自民党支持者の票が入らなかったらもっと悲惨な結果だったというわけです。それでも選挙区全員当選だから大勝利ですか?それなら選挙は信心でも広宣流布でもありませんね。もうソレに気が付いている創価民さんも結構いるみたいでSNSでは公明党に投票しなかった創価民さんが今まで以上にたくさん見かけました。選挙は広宣流布といいながら公明党の比例票は増えるどころか減り続けている。私が男子部活動家時代にMAX約900万票だったのが2/3の600万になっているわけです。つまり創価の選挙活動は全く広宣流布の役に立っていない。広宣流布の役に立っていないのだから日蓮大聖人の役に立っていない。大聖人の役に立っていない活動は大聖人の信心ではない。大聖人の信心ではないのだから功徳はでない。このことは最早現証として証明されているのです。また池田創価は「仏法は勝負」というけど、その勝負に創価は負け続けているのも事実です。池田大作が掲げた公明比例1000万票はついに一度も達成していません。池田創価常勝神話などとっくに崩壊しているのです。「選挙は信心」ならばこの結果から導きだされる答えは創価の信心は間違っているということです。勝利も功徳もない創価の選挙信仰を続ける意味なんてないと思うんですけどね~。その事実を認めた学会員さんは自分が選んだ公明党以外の候補・政党に投票してますよ。お金と時間をかけて選挙活動し懸命に祈った結果が618万票。創価本尊は創価民の願いを一度も叶えていない。これで創価本尊が「単なるモノ」であることもハッキリしましたね。私から見れば笑いが止まりませんがバリカツ諸氏はこれで大勝利と満足しているのでしょうか?もし満足しているなら今後も公明党支持者は減り続けるし創価も衰退し続けることでしょう。それはそれで面白いですけど早く気づいて学会活動から離れた方がいいと忠告だけはしておきます。選挙は信心でも広宣流布でも立正安国の戦いでもありません。

 

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