創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日興遺誡置文の研鑽②

「日興遺誡置文の研鑽」の第2回目です。今日は以下の2箇条について研鑽したいと思います。

一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事。

一、偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事。

この2箇条は御書の取り扱いについてのご遺誡です。このご遺誡読むと日興上人のご存命の時からすでに五老僧一派は御書を偽書と言ったり、自分達が勝手に書いた書物を御書だと主張したりしていたのだなぁといつも思います。そしてそれが700年も続いるわけです。もっとも身延などは「御書」とは言わず「日蓮遺文」といいますから御書を蔑ろにした五老僧の末裔らしいですね。

一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事。

これは身延お得意の「都合の悪い御書は全部偽書」理論ですね。彼らから言わせると相承書はほとんど偽書扱いです。いやそれが確実に「偽書」であるなら問題ないしそれに従いましょう。でも彼らの主張はまったく希望的推測にすぎません。例えは大聖人の出家時のお名前が「是生(聖)房蓮長」であるということが書かれている唯一の書である「産湯相承事」はずっと偽書扱いしてきたので彼らは長らく「是生(聖)房蓮長」という言葉を使いませんでしたが、『授決円多羅義集唐決』の大聖人の自筆写本の奥書に「是聖房」と書いてあり真筆であることが分かりました。それにも関わらず「生」と「聖」の字が違うなどといって未だに偽書であると主張しているのですから身延学者のレベルが知れるというものです。そして最近では正宗攻撃をしたいがばかりにこうした身延学者の受け売りをして、大聖人の御書の一部を「偽書」扱いする創価民も増殖しています。自分達の御書全集に掲載されているのにですよ。実に情けない話です。日興上人はこうした親近してはいけないと遺誡されています。さて、御書とは大聖人の書き残された書物ですが我等日興門流においては広く歴代上人の書き置かれた御文・ご指南も「御書」として拝することが大切です。なぜなら唯受一人血脈相承のご歴代上人は三宝一体義のおける僧宝だからです。それが日興門流の信心であり教学です。創価民は相伝書における後加文を否定しますがそれを否定することは僧宝否定となりひいては三宝否定となるのです。こうした後加文を否定する創価民の姿勢は【御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者】に該当するのです。

一、偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事。

これも五老僧系がお得意のパターンです。有名のは「日朗御譲状」ですね。大聖人が臨終に当たりご自身の墓所に置くよう遺言された随身仏を日郎が身延の墓所から持ち去った(盗んだ)ことを正当化するために偽作したのが「日朗御譲状」です。そして現代の「偽書」の代表作といえば池田大作の「小説人間革命」でしょう。池田創価は単なる池田大作私小説を「現代の御書」などと位置づけ会員たちも「小説」が正で「御書」が傍のように扱っています。そして選挙や新聞拡販の活動をしているのですから、まさに今の池田創価偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者】であり、大聖人仏法を名乗る師子身中の虫に他なりません。ある時は「御書に書いていない」と言って否定しながらある時には御書に書いていないことを主張する。また自分の都合に合わせた御書の解釈なども広義でいえば「偽書を作って御書と号す」行為です。こうした「御書」に対する冒涜は日興門流から外れた五老僧・異流儀の発想・行為であると言えます。そんな創価が今年は池田大作監修の元で新しい御書全集を発刊するそうです。どんな「出来損ないの欠陥品」が出来上がるのか今から楽しみです。


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