創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

正宗の行儀と創価のイベント。

先日お会式の御逮夜へ参詣した。昨年に続き2度目のお会式だが厳粛な雰囲気の中に歓喜があり清浄とした気分になった。

昨年の記事⇒ お会式のお逮夜に参加した

正宗では古来「1年365日お寺に参詣してもお会式に参詣しなければなんにもならない」と言われているらしい。少し前に創価民のピンクレモンさんが「この指導はおかしい」というコメントをくれたが俺はまったく「おかしい」とは思わない。むしろ「納得」の指導だと思う。この指導を「おかしい」と思うのは、創価民が日蓮大聖人のご入滅の日を世間で言うところの「単なる命日」としか捉えていないからだろう。昨年のブログにも書いたが、大聖人のご入滅は「非滅の滅」を示し寿量品の「常住此説法」のお姿を顕しご本仏としてお出ましになられた時なのである。それは我ら末法の荒凡夫にとっては非常に有難いことであり喜ぶべきなことなのだ。なので正宗では慶事として行うのである。その大切な儀式がお会式だ。ただの凡夫の大作が生まれたとか、大作が入信したとか、大作の選挙違反容疑が無罪になったとか創価のそんなチンケな記念日などとはワケが違う。大聖人をご本仏と仰ぎその功徳に感謝する信徒であれば年に1度のお会式に参詣しようと思うのは当然のことだ。もちろんお会式に行かなければ全てが無駄になるとか罰が出るとかの話ではない。「お会式に参詣しなければなんにもならない」というのはお会式の意義の大切さと大聖人門下としての信心のあり方を指導しているのである。「いくら祈っても師匠と呼吸が合わなければ何にもならない」などという創価大作指導の方がまったく無根拠の「おかしい」指導だと思うぞ。

ピンクレモンさんのコメントで御授戒のことも書いてあった。曰く創価の入会Gは多くの創価民が集まってお祝いしてくれるが正宗の御授戒は創価のようにみんなでお祝いをしてくれないから法華講は冷たいという非難だ(笑)「温かい」とか「冷たい」とか丸亀製麺の注文じゃあるまいし、こんなもんは個人の主観的感想であって仏法の正邪には関係ないしそもそも論を言えば自身の信心に組織なんて関係ない。学生がこのクラスなら勉強するけど別のクラスになったら勉強しないと言っているようなもので幼稚すぎる。その上で言うが創価の入会Gと正宗の御授戒は比べるモノではない。創価の入会Gは凡夫の団体に入会するためのイベントだが御授戒とはご本仏と自分自身が相対して行ういうならば「唯仏与仏」の儀式である。

◆是れ即ち与仏と云うは法華経の行者男女の事なり(御講聞書)

その厳粛な儀式の席にガヤが大勢集まって騒ぐのはむしろ非常識というものである。先日の天皇陛下の「即位礼正殿の儀」で騒いでいる人間などいないだろう。正宗の御授戒の儀式と創価の入会のイベントを比べるのは、「即位礼の儀」と「ハロウィンパーティー」を比べて「ハロウィンの方が盛り上がって楽しい」と言っているようなものである(笑)

しかし、ピンクレモンさんと同じような事をいう創価民は数多く存在する。これはひとえに創価大作の化儀を軽視する創価教の教えが大きく影響している。新興宗教団体の創価には他に誇れる伝統も儀式もないから宗門に嫉妬しているのかもしれんが「時代」を口実に化儀を軽視あるいは不要と会員たちを洗脳した結果がピンクレモンさんのような創価民を生んだのだろう。

そもそも化儀について日有上人は「化儀抄」において、

◇行体行儀の所は信心なり、妙法蓮華経なりとご指南され、

日亨上人も「有師化儀抄註解」で

◇行体行儀は是れ信心の表現なりと解説している。

「行体」とは身口意三業の我らの信心。「行儀」が「化儀」のことでここに「お会式」や「御授戒」といった儀式も含まれる。これらの行体行儀の化儀は全て妙法蓮華経の上に立てられ妙法を表現したものである。「信心」と言っても目には見えない。「法体」と言ってもピンと来ない。だから妙法の上に化儀を立てその化儀を広めることによって法体を広める。これを「化義の広宣流布」というのである。「化儀即仏法」「化儀即法体」なのである。故に化儀を軽視することは法体を軽視することであり、化儀を凡夫が改竄することは「法体」を改竄するということなである。日寛上人が「当流行事抄」で

◇諸流は名を蓮師に借ると雖も実には蓮祖聖人の門弟に非ず。只是れ自己所立の新義なり。故に蓮師の古風を仰がずして専ら各自の所好に随うなり

と指摘されているとおり、今の創価は「日蓮大聖人」の名を騙りながら、自分たちで「新義」を作り大聖人も仰がず自分たちの勝手気ままにイベントを行っている団体なのである。そんな創価が大聖人の門弟であるはずもなかろう。

「1年365日お寺に参詣してもお会式に参詣しなければなんにもならない」これ大聖人門弟の行体行儀の明鏡である。

創価の凡夫が企画した軽薄なイベントと宗門の妙法の上に立てた厳粛な行儀は次元が全く違うのである。商業主義のイベント屋の創価ごときが我ら大聖人門下の行儀にクチバシを挟むなどと笑止千万である。


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