第六天の魔王十軍のいくさををこして法華経の行者と生死 海の海中にして同居穢土をとられじうばはんとあらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵ををこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし
今月は、「辧殿尼御前御書」。辧殿尼御前とは日昭(辧殿)の母とも言われているが定かではありません。
今月は参議院選挙もあるし、「己心の魔に負けず、一歩も引かづにFを取るんだぁ~」みたいな感じの講義になるのか?
それとも座談会は選挙の決起大会のようになって御書講義なんてしないのか?まぁ創価の御書講義なんてその程度でしょう。
さて、この御文ですが今回は「日蓮其の身にあひあたりて」の部分をピックアップします。
第六天の魔王の勢力が強まり世が乱れ人々が苦しむ末法の時に、
誰から言われるともなく法華経の行者として敢然と闘争を開始したのが大聖人です。
何故に自ら第六天の魔王との戦いの道を選んだのか?
◆一言も申し出すならば父母兄弟師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば慈悲なきににたりと思惟するに法華経涅槃経等に此の二辺を合せ見るにいはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしとしりぬ、二辺の中にはいうべし(開目抄上)
◆日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ(報恩抄)
等の御文にあるように、末法の一切衆生を救わんがための大慈悲心からです。
更に突っ込んでいえば、これらの第六天魔と闘うために鎌倉時代に出現されたのですね。
本文で「大兵ををこして」とあるが、これは智慧とか勇気とか様々に解釈可能ですが、
いずれにせよ「大兵」つまりは勇気や智慧等の「大兵」を起こす根本は、「元品の法性」のことに他なりません。なぜならば、
◆元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入つて、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり(祈祷抄)
とあるように、第六天の魔王の本質は「元品の無明」であり、これと対峙できるのは「元品の法性」だからです。
そしてこの「元品の法性」こそが、仏性ともいい仏界ともいわれるものです。
その「元品の法性」を最初から所持したいたのが久遠元初自受用身でありご本仏・日蓮大聖人です。
そのご本仏・大聖人が第六天の魔王との戦いの姿を示されているのはご本仏の六惑示現の姿です。
六惑示現とは、創価がカットした寿量品の長行の中に説かれている、
■或説己身或説他身。或示己身或示他身。或示己事或示他事。
の文であり、この分は「仏界所具の十界」の依文です。
◆経に云く「或説己身或説他身」等云云、即ち仏界所具の十界なり。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)
何が言いたいのかというと、我等凡夫とご本仏とでは同等ではない。ということです。
大聖人は「仏界所具の十界」であり、我等凡夫は「九界所具の十界」なのです。
まずこの違いを理解できないと、大聖人と自分は同等だ。という凡夫本仏論になってしまう。
まぁ寿量品の長行を読まない時点で創価に六惑示現なんていっても分からないだろうが(笑)
では、我等が末法の凡夫はどのようにして第六天の魔王と闘うのか?というと、
◆此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり(御義口伝巻上)
とあるように「信」です。そして「信」とは御書の各所に書かれているように「受持」することです。
何を受持するかと言えば、ご本仏の色心二法たる一大秘法の戒壇大御本尊です。
「仏界所具の十界」のたる御本尊を九界の我らが受持することによって真の十界互具、事の一念三千となるわけです。
日寛上人の観心本尊抄文段に曰く、
◇我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。と。
大聖人が六惑示現しながら第六天の魔王との戦いを起こしたのは、一切衆生を救わんがための大慈悲心と冒頭に書いたが、
いいですか学会員さん。己心の魔とは「元品の無明」より起こります。「元品の無明」とは「元品の法性」の真逆で「不信」です。
「不信」とは「本門の本尊」就中一大秘法たる戒壇大御本尊を受持しない(できない)ことです。
日寛上人、取要抄文段に曰く。
◇当に知るべし、心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なりと。
「仏界所具の九界」である大御本尊を受持しなければ、事の一念三千は成立しない。故に成仏しない。
いくら我ら凡夫に仏界ありと言ってもそれは九界所具の仏界であって、仏界所具の仏界ではないのです。
しかるに創価は「大御本尊も本門の本尊」などと言いながら、その「本門の本尊」を受持しない。と言ってるのです。
つまり、大御本尊を受持しない創価に追従することが「元品の無明」なのです。
大御本尊を受持しない時点で貴方は第六天魔に負け、己心の魔に負けているのです。
いや今の創価こそが第六天の魔王そのものの存在と言っていいでしょう。今回の御文の次下に、
◆しかりといえども弟子等檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり
と書いてあるけど、「退転の心」とは大御本尊を捨てる心であり、いまの創価の教義自体が「退転」の証です。
本因妙抄に曰く、
◆我が未来に於て予が仏法を破らん為に一切衆生の元品の大石第六天の魔王師子身中の蝗蟲と成つて名を日蓮に仮りて本迹一致と云う邪義を申し出して多の衆生を当に悪道に引くべし、若し道心有らん者は彼等の邪師を捨てて宜く予が正義に随うべし正義とは本迹勝劣の深秘具騰本種の実理なり
この御文をよくよく読んでみれば分かるでしょう。
「正義とは本迹勝劣の深秘具騰本種の実理」とは一大秘法の事である。
「日蓮に仮りて本迹一致と云う邪義を申し出して」とは、「日蓮仏法」の名を騙り、
「御本尊は全て同じ」「我等凡夫も本仏」などとい主張する創価のことだと思いませんか?
いまこそ大信力を起こし、己心の魔を倒し元品の無明である創価から離れる時です。
創価活動や組織から「退く」ことが、大聖人に近づく第一歩です。