書写本尊に開眼は不要。と言って自分達では「開眼」をすることが叶わない
創価の出来損ない「本尊風カラコピミニ掛け軸」を必死に正当化しようとしている痛々しい創価民。
過日も、某支部長さんに草木成仏の法理を教えたやったが、
「習いそこない」の創価民には難しかったようで案の定理解できなかったようだ。
こうした「開眼」の意味を理解できない創価患部がいう「開眼不要」の決め台詞は、
「相貌が正しければ本尊として成立する」という訳のわからない「本尊論」である。
某支部長によれば、「う●こに正しい相貌を書けばそれも本尊として成立する」らしい(笑)
こう書くと「そんなものを信じて題目を上げないからあくまでもそれは理論上の話だ」と反論をするのだろうが、
問題はソレを実際に本尊にするか否かということではない。
「う●こでも本尊として成立する」という結論が導き出されてしまうという、
その「本尊論」のロジックが問題なのである。故にそうした創価の「本尊論」自体が間違えているという事だ。
さて「相貌」とは簡単にいえば「見た目」という事だが、創価罵患部の「正しい相貌」とは一体どんな「相貌」なのか?
ここで、初信の会員さんの中には知らない人もいるだろうから書いておくが、
日蓮大聖人の直筆の御本尊は、全ての「相貌」が同じではないのですよ。
佐渡始顕と言われる一番最初の御本尊は、いま貴方たちが拝んでいる本尊風ミニ掛け軸とは全く「相貌」は違います。
佐渡始顕だけではなく、現在の創価のカラコピミニ掛け軸と違う「相貌」の本尊はたくさんあります。
さて、そこで創価罵幹部・罵活動家に問いたい。
数ある大聖人の御本尊の中で「どの相貌」が「正しい相貌」なのか?
創価の「真筆も書写本尊も全ての本尊は等しい」という教義であれば、
全てが「正しい相貌」となるがそれだと「相貌」は重要ではないということになるではないか
では、そんなにたくさんある相貌の中から何故戒壇大御本尊の相貌を書写した本尊を創価は使うのだ?
他の本尊を書写した「相貌」の本尊ではなくわざわざ大石寺の戒壇大御本尊を
逆に、創価本尊カラコピの「相貌」だけが正しいととしたならば「全ての本尊は同じ」という創価の教義は間違っていると同時に、
「正しい相貌」の大元である大御本尊を捨てたことに対して全く正当性がない。
また、「正しい相貌」といいながら創価は、日寛上人が書写した御本尊の「相貌」を改竄しているのはどういうことだ。
この「改竄本尊」が「正しい相貌」ならば、「改竄前」の御本尊の相貌は正しくないということになる。
これでは話がまったく違ってきてしまう。
そういえばこの創価の「本尊改竄」について「大した問題ではない」などと言ってる創価民のブログを読んだが、
仏様の顔にマジックで落書きしても仏様には変わらないから大した問題ではない。というような話で
「改竄が大した問題ではない」という創価民は一体何を根拠にそう言っているのか知りたいところだが
そのブログにはその理由は書いていないかった。
「許容範囲」という事だろうが、それは「落書きする側」にとっての許容範囲であって「落書される側」の許容範囲ではないだろう。
若き日の大作センセが幼児の顔にマジックで落書きしているのと訳が違うのである。
出来ごごろとか軽い冗談のつもりでは済まされない事を許容範囲とするのが創価民の信心ということか。
いづれにせよ、創価罵活動家のいう「正しい相貌」とは創価の改竄本尊風掛け軸の「相貌」なのか?
それとも日蓮大聖人御筆の御本尊の「相貌」なのか?だとしたら大聖人様のどの御筆の御本尊の「相貌」なのか?
ハッキリしろといいたい。
そこを曖昧に誤魔化して「正しい相貌」であれば、誰が書写しようと写真に撮ろうと「正しい本尊」になる。
などという莫迦丸出しの「本尊論」を必死の形相で語っていても何の説得力もない。
また、そんなすっ呆けたフザケタ話で純真無垢な会員さんを騙し続けて楽しいのか?
まったく創価ってやつは「本尊」だけでなく、幹部・活動家の教学から信心まで何もかもニセモノだな。
患部・罵活動家の「相貌」に「ウソ」って書いてあるもんな(笑)
ったくどの「相貌」下げて会員さん偉ぶって指導してんだよ。