蘭房さんから三沢抄を引用したコメントをいただきましたので
2記事連続で御書ってのもちょっと堅苦しくなっちゃいますが
その三沢抄について少し書きます。
蘭房さんが引用してくれたのは
◆仏法をばがくすれども或は我が心のをろかなるにより或はたとひ智慧はか しこきやうなれども師によりて我が心のまがるをしらず、仏教をなをしくならひうる事かたし、たとひ明師並に 実経に値い奉りて正法をへたる人なれども生死をいで仏にならむとする時にはかならず影の身にそうがごとく雨 に雲のあるがごとく三障四魔と申して七の大事出現す
この部分です。ここを引用し
大作センセは結局「正信の師」でなかった。
と蘭房さんは言われています。
まったくその通りです。
そもそも在家同士の間に「師弟」なんて持ち込む時点でオカシイのです。
在家同士は善知識の集まりであり
善知識とは、一向に師匠でもなければ一向に弟子でもない。
と以前このブログに書いた通りです。
なのに、師匠と弟子という関係を在家同士に持ち込んで利用した
大作センセは最初から大聖人の弟子という自覚がなかったわけです。
大聖人よりも戸田先生。
一見美しく聞こえますが、
これは単に戸田先生を利用しただけであり、
そのような大作センセを戸田先生が喜ぶ道理もないでしょう。
大作センセやバリカツさんは「師匠・大作センセと異体同心の戦いを」なんていいますが
在家信者同志の異体同心とはそういことではありません。
日因上人が金沢法難の時に信者に書かれた手紙の中に
◇一結講中異体同心に未来までも相離れ申すまじく候、中に於て一人地獄に落入り候はば講中寄合いて救取るべし、一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし
という一文があります。(法華講員さんには有名だと思いますが)
このご指南が、大聖人門下の在家の信徒の規範になるご指南です。
在家同士の師弟義など邪道もいいところです。
では、そこで上記の三沢抄の御文を拝すると
◆明師並に 実経に値い奉りて
この「明師」とは大作センセではなく、人本尊である日連大聖人です。
「実経」とは、法本尊である南無妙法蓮華経です。
ですから「明師並に 実経」といいうのは
人法一箇の「戒壇大御本尊」ということです。
そこを踏まえて解説すると、
「たとえ大聖人の色心二法の当体である大御本尊にめぐりあえて
正しい信心に巡り合えてもいよいよ成仏するころになると
三障四魔が必ず現れて成仏を妨げる」といことになります。
◆たとひ智慧はか しこきやうなれども師によりて我が心のまがるをしらず
まさに、旧日蓮正宗創価学会系の幹部・バリカツさんがこの状態です。
そう、大作センセという邪智謗法のモノを「師」にしてしまったばかりに
「信心」が曲がってしまった。
そしてそれを気づくこともできない。
在家同士の師弟義なんて御書のどこにもないのに
大聖人と日興上人の師弟義と創価のそれは全く異次元の話なのに
早く「明師並に 実経」に再び値い奉って欲しいものです。
てなわけで、今日はこの辺で。
次回は、もう少しライトな記事書きますね。