創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

無宗教信仰

無宗教」の比率が日本は過半数を超えているらしい。

世界ではこうした国は、日本を含め中国や北朝鮮など6カ国程だとか。

また世界人口のうちの「無宗教」というのは

15%くらいらしく、「無宗教」という人は世界的は少数派のようだ。

そんな日本人は無信仰なのか?ときかれればそうではないと思う。

初詣やお墓参り盆や彼岸

また各地で行われている祭りの類

昔よりもそうした儀式的なことは少なくなったがなくなっていない。

ずっと昔からやっていたことが未だになくなっていない。

そう考えると日本人は信仰深い民族だと思う。

上記に挙げた宗教的儀式を宗教だと思っていないでけで

無宗教」というのは一種の信仰だと思っている。

無宗教」とは「何も信じない」

「何にも祈らない」「何にも願わない」というでなく

「なんでも信じる」「何にでも祈る」という信仰で

それは日本古来の八百万の神信仰の進化系だと思う。

創価はもとより宗教団体から離れる多くの人が

無宗教」を名乗るもよく理解できる。

宗教とは全て自身の宗派の教義を正しいと主張する。

これは信仰の純粋性であり、

布教とともに信仰の根幹である。

そこに疲れてれれば

「何でも信じて」「布教もしない」という

方向にいくのは当然のことである。

ただやはり人間というのは「信仰心」まで捨てられない。

生まれてこの方ただの一度も

何かに祈ったり。願ったりしたことのない人はそうはいないと思う。

子供の頃何か怖いことがあったりすすると「助けて」と誰にとなく祈ってみたり

高校野球で負けているチームの応援団が手を組んで何かに祈っていたり

「祈り」とはそもそもそういうもであり

だからこそ「人間」だけが信仰を持つ。

宗教者から見れば「なんでもかんでも信じる」ことは信じられないし

無宗教者からみれば「たった一つの事を信じる」ことが信じられない

宗教者からみれば「絶対自力」なんて信用できないし

無宗教者からみれば「他力本願」と見えるのだろう

ただ結局は「何かを信じる」ということに代わりない。

それなのに、宗教者は無宗教者を必要以上に侮り

無宗教者もまた宗教者を必要以上に嘲笑う

そうした人たちを見ていると

なんだか可笑しくなってくる。

宗教者がそんなに偉いのか?

無宗教者がそんなに偉いのか?

どっちも変わんね~よって思う。

大切なのは自分自身が自立出来てるかどうかだよ。

宗教というのは自立するためのものであって

依存するためのものじゃない。

創価のインチキなところはそこにある。

そもそも大聖人仏法は一人の人間を自立させる教えだ。

それも「絶対自力」でもなく「絶対他力」でもなくだ。

ところが創価は会員から自立を奪い依存させる方に仕向ける。

そしてそれを「日蓮仏法」というわけだ。

これが一番の詐欺なのである。

なのでそこから抜け出した人々はある意味「自立」することができたと言える。

あとは自分自身が、宗教を続けるか

無宗教を選択するか決めればいいことだ。

無宗教を蔑む宗教者や

宗教者を嘲笑する無宗教者は

まだまだ途中だなって思う。

自分の主張を語ることはいいことだ。

ただ無駄に蔑んだり嘲笑することしかできないのはどうなんだろうね。

自立できない創価バリ活さんに多いタイプなんだけどね。

無宗教者から宗教者になるにせよ

宗教者から無宗教者になるにせよ

人は何かを信じて生きていくわけだから

自分の信じるモノは自分で決めたいもんだね。

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