創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価のケンカ友達が・・

今朝7時過ぎに、男子部時代からの後輩から電話が。

なんとなくイヤな予感しつつ出てみると

彼の、お父さんのSさんの訃報だった。

彼は俺が学会活動を始めた時の地区リーダーで

その時以来の付き合いだから20年以上付き合っている。

その父親であるSさんは当時副支部長だったかな?

で、よく自宅でスキヤキするときは招いてくれた。

俺がスキヤキ大好物なのを知ってて呼んでくれたっけ。

その後、俺が組織を追放されたときは、

Sさんも、息子である彼に俺との付き合いをやめる様に迫ったり

俺を追放したい幹部達の一人であり仲間だった。

しかしその後、その息子から

コトの一部始終をききそれを信じてくれて、

すぐに、「俺が間違っていた。申し訳なかった」と謝罪してくれた。

なにせ、その時は俺達の言い分など

聞く耳すら持ってない幹部ばっかりだったし、

「オマエが悪い」という空気がゾーン内にあったから、

俺達の言い分を聞き、信じてくれ、そして謝罪してくたのは嬉しかったな。

その当時の組織の上一人から下万人の活動家の中で、

後にも先にも謝罪をしてくれたのは、Sさんだけだ。

その後は、年に一度12月に会う機会があり

会うたびに、俺は創価の謗法を語り

Sさんは、それでも創価の正義を語り

毎年2時間くらい、喧々囂々とやりあう。

最初は、御書でやりあうんだけど

しまいにゃ、「御書に書いてあることが信心の全てじゃないんだよ」と言い出し

「そうですよ。だから御書にないからって血脈相承をひていちゃダメでしょ」と言い返し

最後は、この続きは1年後にやりましょう。っていって帰ってくる。

ここ十年はそんな付き合いだった。

Sさんは、なんとか俺を創価の組織に戻してくれようとしてたらしく

色々と組織中で言ってくれていた。ということも人伝てに聞いていた。

今年の初めに入院し、春先に一度退院した時も、

自宅に、退院祝いの花を持って行って少し話したが、

その時にも、創価の本尊義についてケンカした。

もっとも、その時はSさんの体調を考え「軽い」感じのケンカだったが。

結局それが、最後となってしまった。

いつかは、Sさんい創価の間違いを認めさせてやろうって思ってたのに・・・

(Sさんからしてみればその逆を思っていたのだろうが)

先月くらいの後輩の話では回復の方向に向かっているような感じだったので

今年も来月12月にはまたやりあえると楽しみにしたいたのだが・・

Sさんは、創価の活動家の中で唯一やりあえるオヤジだった。

というか唯一、俺と正面から正々堂々と戦うオヤジだった。

それが、とっても心地よい。

陰口しか叩けないでコソコソ逃げ回る

他の連中とは大違いだった。

Sさんの奥さん(後輩のお母さん)に聞いた話だが、

20歳上年下の俺をライバルと呼んでいたらしい。

光栄なことである。

Sさんんは、一本気で単純。男子部みたいにイケイケの壮年部だったぁ。

昔の創価男子部の匂いがプンプンしてくるようなオヤジだった。

まぁ、おれの好きだった創価の匂いだな。

その、Sさんが亡くなるとは全く想像もしていなかった。

なんとも様々な思いがあるが、

創価活動家の唯一の「ケンカ友たち」を失った淋しさが一番大きい。

お昼頃、枕花をお供えに自宅にお邪魔した帰りの車中、

ふと、撰時抄の

◆業ふかくして但南無とのみとなへて仏とはいはず、今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん

の一節が頭に浮かんだ。

大御本尊(大聖人)を捨てた創価で活動する会員さんたちは、

ただ「南無」だけ唱えて、「仏」(日蓮大聖人)と言っていないのだ。と。

そして、本当は今世のうちに大聖人(大御本尊)と

お会いすることができるのに

それをしないまま一期を過ごしてしまうんだ。と。

それは、そう言っている自分自身も同じなんだなぁって思った。

まぁ、俺もいつまでもコレじゃいかんな。って思ったよ。

いつかは、今世のうちに大聖人にお会いしなければ。と思った。

ともあれ、創価のケンカ友達をなくして寂しい気分の夜です。

「Sさんが創価の悪に引かれず無事霊山まで連れて行ったください」と

大聖人にお願いした。

ケンカの続きは、また来世でやりましょう。

いや、来世は共に大御本尊の元戦いましょう。

まずは、少しの間ゆっくりしてください。

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