まづは、こんばんは。そしてコメントありがとうございます。
>以下の文章について破折してください
とのことですので長くなるので本文で回答させていただきます。
今回のコメントはとてもいいコメントだと思います。
なぜなら、今回のコメントは多くの学会員が同じような間違いをしているからです。
前置きはこのくらいにして本題に入ります。
>これに対する回答は、既に池田会長の「御書の世界」第2巻で述べられています(2003年5月発刊)。 本書の「御本尊」の章で、池田会長は、御本尊は書かれている意味や内容が最も大事であり、「法」を書き表しているのが御本尊なのだと言われています。
まずはこの部分からしてすでに狂ってます。
この池田センセの言っていることは、池田センセの単なる我見です。
昨日、ブログに書きましたが単なる教学不足の池田センセの妄想を
「真」とした前提での理論展開ではなんの説得力もありません。
この前提が通じるのは学会活動家だけの世界で
それ以外の場所では全く通用しない前提です。
私が昨日のブログで言いたかったのは、
こうした間違いを正しい。
という所からスタートするから創価教学は世間に通用しない。
つまり何の普遍性も客観性もなく
独りよがり論法でしかない。ということです。
こうした独りよがり論を振りかざし押し付けるから
世間のほとんどの人が創価の言葉に耳を貸さないわけです。
聴いてる方は何の興味もないしかもどこが自慢なんだからわからない自慢話を聞かされいるようなものです。
創価が正しいということを、創価の指導者の言葉で証明しようとして何になるのでしょうか?
こんな論法に騙されるる人はおそらく「オレオレ詐欺」に騙される人より少ないと思います。
だから創価は三流の詐欺師だと私はいうわけです。
「御本尊」は単に法を書き残したのではないのです。
池田センセの言うところの「法」とはどんな「法」を指すのか?
その説明がなければ御本尊を説明すことができません。
では御本尊にはどのような「法」が書き表されているか?
それは、法華経文上の法でなく文底独一本門の法であることは共通認識でしょう。
文底独一本門の法とは「事の一念三千」にほかなりません。
では、文底独一本門の法たる事の一念三千の体とは何かというと
日寛上人の文底秘沈抄に
■問う、文底独一本門を事の一念三千と名づくる意如何。
答えて云わく、是れ唯密の義なりと雖も今一言を以って之れを示さん、所謂人法体一の故なり。
とあるように、単なる法ではなく「人」と一体法なのです。
ここで言うところの「人」とは言うまでもなくご本仏(久遠元初自受用身)です。
◆釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき(三世諸仏総勘文教相廃立)
と御書に書いてある通りです。
つまり、法というのは具体的にはご本仏の色心二法なのです。
そして御本尊とは、
■若し当流の意は事を事に顕わす、是の故に法体本是れ事なり、故に事の一念三千の本尊と名づくるなり。(日寛上人・文底秘沈抄)
とあるように理(法)を書き表したものではなく事(本仏の色心二法)を書きあらわしたものなのです。
故に、ご本尊というのは、法に即せば事の一念三千ですが
人に即せば大聖人そのもの(ご本仏)なのです。
ここが、学会員は分からないのです。
大御本尊はご本仏そのもであることがわからないから
平気で大御本尊を捨てるということができるのです。
さて、それがわかると次の
>「根本は何だ?」と聞かれれば、あえて言えば「目に見えない『法』が根本であり、物体としての根本については議論する意味がない」という答えになるかと思います。
はい。これ。完全に間違ってます。「目に見えない法を根本」とするのは「理の一念三千を根本とする」ということですから、大聖人仏法ではありません。そして末法では理の一念三千でが成仏できません。
>「法」を文字で表現しているのだから、お手本とされていた大御本尊があってもなくても、「法」の内容さえきちんと踏襲されているならば、コピーしようが書写しようが特に問題はない、ということになるかと思います。
これも間違いですね。「法」を表現しているのでなく大聖人の心法を表現しているのです。勿論大聖人の心を総て分かり尽くしている凡夫がいるならその人が書写してもいいでしょうが、凡夫が舎利弗ですら知ること能わず。と経文に書かれているご本仏の智慧を 知ることができるのか?答えはNOです。もしそういう凡夫がいたのならそれは破仏法の輩です。つまり法(本仏の心法)を総て踏襲できる凡夫はいません。ただ血脈相承を受けた法主のみがその心法を書き写すことができるのです。これは日興上人の代からの日蓮仏法の奥義です。相承とは法門・法義を伝えるのでなく、ご本仏の心法を伝えることなのです。
>これらの考え方から、改定された「御祈念文」では、大御本尊という物体を中心とした祈念文から、法華経に説かれた「法」を中心に据えた「法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊に・・・」となっているのだということがわかります。
はい。これも狂ってます。大御本尊は物体ではなくご本仏そのものです。そもそも南無妙法蓮華経のご本尊とはご本仏なのですよ。法華経に説かれた法というのは、文上・理の一念三千の法です。そんなものに南無するのは天台宗とか日蓮宗です。大聖人仏法は天台の仏法でも釈迦の仏法でもありません。
最後に、
>「創価学会執行部が暴走して、池田会長の意向を無視して教義条項の改正をした」というようなお話が見られますが、
池田会長の意向を無視したどころか、彼の思想を忠実にトレースした「教義条項改正」であり「御祈念文改正」だったことが、今回の考察から見えてきます
これは同意見です。池田センセのように御本尊が法を書き表しただけ。
などという低レベルな教学の持ち主を永遠の師匠に祭り上げてしまったので
仕方なく、池田センセのレベルに合わせて教義を変更したのでしょう。
また、創価教学もそれに合わせて陳腐で
教学と呼ぶには恥ずかしすぎるレベルまで落ちていったということです。
リアルの対論なら法華講活動家はもとより
仏法を知らない人でも簡単に破折できちゃうレベルです。