またしても、会則の変更と
勤行要典の制定が行われましたなぁ
無間地獄街道まっしぐらって感じだね。
まぁ、学会活動家・幹部は聞く耳をもたないだろうが
今回の勤行要典を、聖教新聞発表記事に沿ってみてみようか。
○(聖教記事)名称は「創価学会『勤行要典』」と定めました。
この名称からしておかしいよね。もう日蓮大聖人の仏法の修行でもなんでもない。
この名称に如実に現れている。
○日蓮大聖人の仏法の本義に基づき、創価学会の宗教的独自性をより明確にするため、「創価学会『勤行要典』」を制定しました
これも言ってる事が滅茶苦茶。大聖人の仏法の本義に基づくのであれば、
創価のの独自性など存在しないはずだ。
なぜ創価の独自性が必要なのか?独自性など必要ないだろう。
創価の独自性とは言い換えれば凡夫の己義ということだ。
己義を構えることは、大聖人の仏法の本義からすでに外れてるということだ。
創価が【大聖人の仏法を信じ広める】のであるのなら、創価独自のモノは何も必要ないのである。
○池田先生のご了承をいただいた上で、会則に則り、師範会議と最高指導会議の賛同を得て、制定するに至ったものです。
いつも言っているが、凡夫が化義を制定していいという文証は今回もなしかい!
勤行とは仏が定めた修行だ。凡夫が好き勝手に行うのは修行じゃない。
○従来、朝の勤行の際に行っていた「諸天供養」については、最初の題目の中にその意義を込めることといたします。
その文証は?ちゃんと説明しろよ。
ああ、学会活動家には文証なんてなくてもOKってことかい。
そして御祈念文がこれまた更に滅茶苦茶だな。
○ 日蓮大聖人が御書に「南無妙法蓮華経」を「法華経の肝心」と度々、仰せになっていることから、根本の法である南無妙法蓮華経を現された御本尊を、「法華経の肝心・南無妙法蓮華経の御本尊」と分かりやすい簡潔な表現にしました。そして、この御本尊に深く報恩感謝申し上げ、御本尊根本の信心を誓います。
これなんか、完全に悩乱してるね。とうとう御本尊を三大秘法とも言わないのか。
【人】法一箇の御本尊を単なる法としか見ていない邪見。
まぁ、学会のコピー本尊には大聖人の魂がないから人法一箇じゃなからこういうのか。
にしても「法華経の肝心」ってなんだよ?
これじゃ、法華経の方がご本尊より上みたじゃいじゃね~か。
ああ、あれか。宮田の言ってた釈迦本仏への移行する布石か。
しかし、こんな幼稚なことをよく言えるな。
○ また、御本尊を現された日蓮大聖人を「末法の御本仏」と仰ぎ、報恩感謝申し上げ、大聖人直結の信心を誓います。
大御本尊を捨てた創価が大聖人直結?一体どんな脳みそしてんだ?
悩乱してるとしか思えんな。
○「三代会長への報恩感謝」の項目については・・・
ここに至ってはもう言葉もない。
なんで、凡夫が凡夫に報恩感謝する必要がある?
○三代会長に貫かれる「師弟不二」と「死身弘法」の「学会精神」を永遠に継承していく以外ありません。
はぁ?戸田先生の指導をことごとく否定する池田センセが戸田先生と不二だって?
寝言は死んでから言ってもらいたい。
○「三代会長」の死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げるとともに、その指導を実践し、その精神を受け継ぐことを誓います。
戸田先生の言ってることと池田センセの言ってることと、どっちの指導を実戦しどっちの精神を受け継ぐんだ?
言ってることが真逆だろ?はっきりしろよ。
○創価学会が、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現しゆくことを明確にすることとしました。
大聖人の御遺命は、大聖人仏法すなわち、一大秘法たる本門本尊(大御本尊)の流布だ。
法体もない創価の単なる邪義をまき散らかすのは広宣流布とはいわない。
○私どもは、ますます、「三代会長」、なかんずく池田先生への報恩感謝の思いを深めるとともに・・
最後に本音が出たな。三代会長への報恩感謝なんて誤魔化しちゃいるが
結局、池田センセに報恩感謝しろってことだろ。
こんな気持ち悪いご観念を毎日本当に学会員はするつもりか?
なんで、三代会長の中でも特に池田センセに報恩感謝するんだ?
多くの純粋な信者に大御本尊を捨てさせた張本人だよ。
大御本尊を捨てさせてくれて感謝しますってか?
それでいいの?本当に?
ご観念文には大聖人仏法の相承の深義が含まれいる。
例えば、本尊供養(二座)の正宗のご観念文は
□南無本門寿量品の肝心・文底秘沈の大法・本地難思境智冥合・久遠元初・自受用報身如来の御當體・十界本有常住・事の一念三千・人法一箇・獨一本門戒壇の大御本尊、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為)に
である。
これを読めば戒壇大御本尊が、単なる法華経の肝心ではなく、たんなる根本の法ではなく、ご本仏・日蓮大聖人であることがわかる。大御本尊は日蓮大聖人である。という日興門流の正しい本尊義がわかるのである。
言葉の意味はわからなくても、このご観念文を読めば正しい本尊供養になるのだ。
ご観念文には、仏法を知らなくても正しく供養できるという意味・意義がある。
こっちのほうが言いやすい。こっちのほうがわかり易い。
そんな安易なものでない。
結局、勤行様式にせよ観念文にせよ
正しく修行することが大切なのだ。
そして正しい修行とは相承によって受け継がれる。
創価の上層部が決めた修行なんてのは
所詮、凡夫が自分勝手に決めたことであって
仏法の修行ではないイカサマに過ぎない。
凡夫の決めたことを実践したところで功徳も成仏もないと知るべきだ。