創価の対話は
「励まし社会」の建設。
たゆまぬ訪問・激励から
蘇生のドラマが。
今日も友のもとへ!
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何だかピンとこないんだよね。
創価の対話はいつから「励まし」になったのか?
内部の部員さんまわり(家庭指導ってやつね)
励ますためにするものなのかね?
激励=指導=信心みたいな雰囲気
なんか違うんだよなぁ
そもそも未活動家の会員さんに何の激励をするんだろ
早々、深い悩みを持っている会員さんはいないし
仮に悩みがあっても創価の活動家になんて相談しないって
活動家さんからしてみれば「友」かもしれないが
未活動家会員は活動家達を「友」なんて思ってね~し
友達らしいことしてないんだから当然だし
活動家にしてみれば、未活で学会に批判的な会員のことを
面倒くせ~なって感じでしょ?
それを、「友」なんて言うのは偽善だよな。
話は戻るが、未活動家会員に激励しに行くってのは違うな。
大聖人の仏法を語りに行くってのが
本来の創価の対話じゃないのか?
もう20年以上前の話になるが
俺がまだ未活動だった頃何度も活動家から訪問を受けたが
つまらない挨拶程度の事ばかりで
正直迷惑だった。
その後引越し先で新しい組織に移ったが
その支部の男子部長が毎週1回必ずやってきた。
一番最初に来た時に玄関先で
「御書を読ませてもらっていいですか?」というので
「どうぞ」というと
その部長は御書を開きその中の一節を読んで
通解をいい帰っていった。
その後も毎週来るたびに御書を読んで帰っていく。
最初は、「なんだかなぁ」って思ってたけど
もともと活字マニアの傾向があるのか
段々と自分も御書を読みたくなり
嫁の持っていた御書を読み出した。
まぁ、読んでみるとチンプンカンプン?
句読点も今風じゃなく、どこで区切ったらいいのかさっぱり。
読めない漢字とか意味がわからない仏法用語もある。
今みたいにネットも普及してなかったら調べられないし
そりゃ~読むのに一苦労。
しかも最初のうちは法門だらけでわからないからつまらいし。
後半のご消息文になってよくやく一息って感じだったよ。
それでも、毎日読み続け約1ヶ月ほどで
御書全編を読破したが
やっぱりわからない。
そこで、件の男子部長にどうしたら御書がわかるようになるかと質問したところ
学会の会合に出れば学べる。といわれた。
それが俺が活動家になった大きな原因のひとつだ。
なので俺も活動家になってから
常に御書中心で活動してきた。
今から思えば
この部長の行動こそ創価の対話であり、
広宣流布の活動であり
家庭指導・個人指導という姿だと思う。
俺が聞いていようが聞いてなかろうが関係なく
玄関先で御書を読んで帰る。
創価学会や池田センセの話など一切しない。
ただ御書を読んで帰る。それだけ。
地味で組織の中でも目立たない人だったけど
すげ~なぁ~っていまならそう思える。
いま学会の活動家でこんな人はいないでしょう。
今に限らずその部長が来る前の活動家にそんな人いなかった。
挨拶程度や創価た池田センセの話しかできないヤツばかり。
そもそも、部員さん回りに御書持って行ってないよね?
会合にだって御書持ってこないんだから。
持ってくるのは聖教新聞だとか
池田センセの本だとかそんなのばかり。
それでいて「御書根本」なんて平気で口にする。
そんなのが、創価の活動家です。幹部です。なんてほざいてる。
創価の人材不足も深刻だな。
まぁ、もっとも創価も完全に謗法団体だから
いまさら御書を持ち歩く必要もないか。
日蓮大聖人に敵対する大聖人と縁もゆかりもない団体だから
広宣流布もできないしね。
「励まし運動」でもしているのが関の山ってところだね。
にしても、いつまで日蓮仏法のフリしてるんだろう?
これじゃ、創価の対話は
「励まし社会」の建設じゃなく
「誤魔化し社会」の建設だよね。