学会の教学研鑽は
「剣豪の修行」なり。
智慧と勇気の
宝剣を磨きゆけ!
人生勝利のために。
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今週は教学研鑽のおススメですかぁ。
御書研鑽といわずに、教学研鑽というあたりが憎いね~(笑)
いや違うか。
ここは「学会の教学」の研鑽と言ったほうが正しいか。
「学会の教学」の研鑽は御書の研鑽ではなく
池田センセのスピーチやら小説の研鑽ってことだな。
男子部時代俺は派遣(地元でなく他の支部にいくこと)の部長の任命を受けた。
その一番最初の部活(男子部の会合)の時の話だが
会合の最後に御書の一節を引用して話をしようと
部員さん達に、
「それじゃ、御書をやるので御書出して」っていったら
だ~れも御書を持ってきていない。
で、地元の副部長に「なんで御書を持ってきてないの?」と尋ねたら
今までの部長は会合で御書をやったことないし
御書をもって来いと言われたことがない。との答え。
え~嘘でしょ?と思いつつ
なんで、ある程度活動家がいるのに
地元から部長が選ばれなかったなんとなく分かった気がした。
これじゃいかんだろ。と思いそれからは
毎回の部活ではほとんど御書・御書・御書
結果、本部6支部内で、新聞も折伏の最下位争いしていたその部は
わずか6ヶ月で本尊流布も新聞啓蒙も分県トップの成績を収め
優秀支部として表彰された。
因みにその支部の俺の前任の男子部長は
いまは壮年のゾーン長をやっている。
それはさて置き、教学を学ぶのは、破邪顕正。
要は折伏のために学ぶのだ。
折伏したいと欲すれば、教学を学ばざるを得ない。
これが、行学の二道だ。
そして、折伏・広流布とは大聖人の仏法を広めることである。
大聖人の仏法を広めるためには、
大聖人の法門・法義を学ぶことは当然のことだ。
その法門・法義こそ御書なのである。
池田センセのスピーチなど学んだところで
折伏などできないのだ。
日興遺誡置文 には
◆義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。とある。
一応は天台を学ぶべからず。となっているがこれは何も天台に限らない
義道の落居。すなわち大聖人仏法を完璧に理解しないうちは
他の研鑽はしてはいけない。ということである。
天台すらダメなのだ。
池田センセのスピーチの研鑽など可からざる事もいいところである。
もっとも、大御本尊を捨てた、創価教学とやらで御書を研鑽しても意味はない。
大御本尊についての、法門・法義が書かれているのが御書だから。
それを捨てたら御書を勉強しても何一つ役に立たない。
剣豪の修行?ちゃんちゃら可笑しい。
教えてる側が、無手勝流のしかもトーシロー。
だから宝剣なんて持ち合わせていない
偽物の竹光を磨いているだけ。痛々しい。
座談会で御書講義をするのに、
講義する側も、受ける側も、御書を持ってきていない。
大白蓮華で、切り文を学ぶだけ。
これのどこが、御書根本なのか?
これのどこが剣豪の如き修行なのか?
寝言は寝てから言って欲しいもんだ。