創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

今週の言葉 (8月16日分)

 学会の教学研鑽は

 「剣豪の修行」なり。

 智慧と勇気の

 宝剣を磨きゆけ!

 人生勝利のために。

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今週は教学研鑽のおススメですかぁ。

御書研鑽といわずに、教学研鑽というあたりが憎いね~(笑)

いや違うか。

ここは「学会の教学」の研鑽と言ったほうが正しいか。

「学会の教学」の研鑽は御書の研鑽ではなく

池田センセのスピーチやら小説の研鑽ってことだな。

男子部時代俺は派遣(地元でなく他の支部にいくこと)の部長の任命を受けた。

その一番最初の部活(男子部の会合)の時の話だが

会合の最後に御書の一節を引用して話をしようと

部員さん達に、

「それじゃ、御書をやるので御書出して」っていったら

だ~れも御書を持ってきていない。

で、地元の副部長に「なんで御書を持ってきてないの?」と尋ねたら

今までの部長は会合で御書をやったことないし

御書をもって来いと言われたことがない。との答え。

え~嘘でしょ?と思いつつ

なんで、ある程度活動家がいるのに

地元から部長が選ばれなかったなんとなく分かった気がした。

これじゃいかんだろ。と思いそれからは

毎回の部活ではほとんど御書・御書・御書

結果、本部6支部内で、新聞も折伏の最下位争いしていたその部は

わずか6ヶ月で本尊流布も新聞啓蒙も分県トップの成績を収め

優秀支部として表彰された。

因みにその支部の俺の前任の男子部長は

いまは壮年のゾーン長をやっている。

それはさて置き、教学を学ぶのは、破邪顕正

要は折伏のために学ぶのだ。

折伏したいと欲すれば、教学を学ばざるを得ない。

これが、行学の二道だ。

そして、折伏・広流布とは大聖人の仏法を広めることである。

大聖人の仏法を広めるためには、

大聖人の法門・法義を学ぶことは当然のことだ。

その法門・法義こそ御書なのである。

池田センセのスピーチなど学んだところで

折伏などできないのだ。

日興遺誡置文 には

◆義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。とある。

一応は天台を学ぶべからず。となっているがこれは何も天台に限らない

義道の落居。すなわち大聖人仏法を完璧に理解しないうちは

他の研鑽はしてはいけない。ということである。

天台すらダメなのだ。

池田センセのスピーチの研鑽など可からざる事もいいところである。

もっとも、大御本尊を捨てた、創価教学とやらで御書を研鑽しても意味はない。

大御本尊についての、法門・法義が書かれているのが御書だから。

それを捨てたら御書を勉強しても何一つ役に立たない。

剣豪の修行?ちゃんちゃら可笑しい。

教えてる側が、無手勝流のしかもトーシロー。

だから宝剣なんて持ち合わせていない

偽物の竹光を磨いているだけ。痛々しい。

座談会で御書講義をするのに、

講義する側も、受ける側も、御書を持ってきていない。

大白蓮華で、切り文を学ぶだけ。

これのどこが、御書根本なのか?

これのどこが剣豪の如き修行なのか?

寝言は寝てから言って欲しいもんだ。

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