1月30日掲載分について。
ますは三大秘法の続きで
(3)一大秘法と六大秘法について
◆(本文)これまで日寛上人の教学に基づいて「一大秘法」や「三大秘法」と言う事を使用してきたが
「一大秘法」が「本門の本尊」であるという日寛上人の解釈は、御書にない。
とまぁ~、性懲りもなく「御書に無い」から一大秘法は本門本尊であると言えないなどという身勝手な論法。
一大秘法が本門本尊であることは道理として明らかだろ。
まず三大秘法は別々に存在している訳じゃない位は知ってるだろうが。
そして本門題目は本門本尊が無ければ存在しない。
本門題目が存在しなければ本門戒壇も存在しない。
本門の本尊なくして、本門題目・本門戒壇は存在しないことは自明の理だ。
故に本門本尊を三秘総在といい
一大秘法と言うのである。
題目や戒壇を三秘総在といは言わないのである。
何度も言うが本門本尊(大御本尊)というのは大聖人の色心二法である。
つまり御本仏そのものなのである。
それが人法一箇の御本尊と言う事であること認識してもらいたい。
◆(本文)一大秘法、六大秘法という用語は今後用いない。
これはどう言う意味だ?
【用語】を用いないのか?
それとも【その義】を用いないのか?
解説と言うならその辺をハッキリさせさなさいよ。
【用語】だけを用いず【義】を用いるなら
戒壇大御本を信受しないというのは間違っている。
【用語】とともに【義】を用いないのであれば
今後学会は「法本尊」と「人本尊」や「自行」「化他」という義を用いないと言う事になる。
題目は三大秘法の題目だから自行・化他の立て分けはない。と言う事で
学会活動なんてしなくても、折伏しなくても問題ない。という事になる。
一体どっちなんだよ?
【用語】だけ使わず【義】は採用するんかい?それとも【義】も採用しないんかい?
◆(本文)「弘安二年の御本尊」は大謗法と化した他教団の大石寺にあるから
受持の対象としないと言う事である。
な~にが「と言う事である」なんだか(嘲笑)
大御本尊と言うのは大聖人そのものであり御本仏の体だ。(しつこく言うよ)
謗法の地にあるから信受しないというなら
大聖人の御在世の時は日本国中全て謗法の地である。
その謗法の地の日本に大聖人はいるから、大聖人の事は信じない。
そう言っているのがこの解説である。
こんな発言を聖教新聞で堂々いい張るとは
ついに頭が七つに割れたか?
それに、その地が謗法であるなら仏は住まいと言うロジックなら
地獄界には仏界がない。という事になる。
つまりは十界隔別という事になるので、一念三千が成立しない。
最早、こんな基礎教学すらも忘れたか。
また、寂光土とは仏の住する場所をいう。
大石寺が大謗法の地と言うなら
まさに地獄即寂光ではないか。
その御本仏(大御本尊)のおわします場所を大謗法のなどというのは、
顕正会と全く同じである。
学会は、顕正会は正しい。と見解を修正したのか?
いまでも顕正会を謗法というなら
同じ発言・見解を持つ学会もまた謗法である。
その学会が謗法の地とする大石寺は寂光土となる。
大石寺が寂光土でも謗法の地でもそんな事は関係ない。
そんな陳腐な理由では
大御本尊を信受しない。という
正当性のある理由とはなりえないんだよ。
さて、今日はここまで。
残りはまた今度。