創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

顕正会についてチラッと書いてみます。

先月、アートマンさんから顕正会についての質問をもらっていたので

今日は顕正会についてチラッと書きます。

お待たせしてすみませんでした。

顕正会の邪義なんて創価のソレと比べると

謗法レベルも教学レベルも低いので、学会員でも破折できるレベルですけど、

と言っても私が広宣部で法論をした相手の7割方は顕正会ですから

創価よりも折伏活動はしているのも事実です。

なにせ、創価は選挙や新聞啓蒙が忙しく折伏どころじゃないですからね。

さて、顕正会の根本邪義は「国立戒壇論」につきます。

彼等は「国立戒壇建立」を大聖人の御遺命などとのたまわっていますが、

国立戒壇」という言葉(当然その定義も)は、身延系出身の国柱会の田中智学が言い出した言葉です。

そのころ(明治時代)に一時宗門でも使っていましたが昭和45年に日達上人から

◇明治時代には、国立戒壇という名称が一般の人に理解しやすかったので本宗でも使用したが、もとより明治以前には、そういう名称はなかったのである。よって、いらぬ誤解を招いて布教の妨げとならぬよう、今後は国立戒壇という名称は使用しないことにする

というご指南がありその後使われていません。

浅いセンセと顕正会はこのご指南を指摘して「宗門は御遺命を捨てた」などと戯言をいいますが

田中智学がいいだした話ですから、当然大聖人の御書にもありませんし、

田中智学が言い出したことを大聖人が御遺命にすることは道理の上からもありえないのです。

大聖人の御遺命とは

◆御義口伝に云く大願とは法華弘通なり(御義口伝巻上)

と仰せのとおり大聖人仏法を広宣流布することにつきます。

このような御書に書いていない事をいう顕正会創価同様に外道に他なりません。

◆「文証無き者は悉く是れ邪偽彼の外道に同じ」(真言見聞)

で、顕正会が「国立戒壇御遺命」論を主張する根拠は、三大秘法抄の

戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり

この御文です。この御文をもって現在はまだ「事の戒壇」は存在していない。全て「義の戒壇」である。

なんて幼稚なことをほざいているのが、教学浅井センセですが

顕正会の主張の通りとすると、大聖人は三大秘法のうち「本門戒壇」を残さなかった。ということになります。

つまり顕正会は大聖人は三大秘法を「残していない」と主張してるのと同じなのです。

これは、浅井センセが「法体」と「事相」の違いを理解していないだけです。

この御文は「事相」の辺に約して述べられているわけで、

実際の「法体」としての「事の戒壇」は当然三大秘法として大聖人が残されています。

そもそも「義の戒壇」「事の戒壇」と言っても、コレは一大秘法たる大御本尊から開かれたものであり

大御本尊に備わっているものです。そして一大秘法とは事の一念三千ですから

そこに備わっている戒壇もまた事の戒壇であることは明白です。

そして「事の戒壇」を開いて六秘となしているのであるから

いわゆる「義」の戒壇とは、「事の中の義」であり、「事」と離れた「義」ではないことも当然のことです。

日寛上人の依義判文抄に

◇実には是れ一大秘法なり。一大秘法とは即ち本門の本尊なり、此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為し、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。故に分かって三大秘法と為すなり。 又本尊に人有り法有り、戒壇に義有り事有り、題目に信有り行有り、故に開して六義と成り、此の六義散じて八万法蔵と成る。

と明確に書かれていますよ。その上で広宣流布の暁にはその「事相」として本門戒壇を建立しなさい。ということです。

しかも、顕正会が良く使う「本門事の戒壇」というのは、「本門寺の戒壇」と完全に混同しています。

「本門寺」というのは、広宣流布の暁に今の大石寺を「本門寺」と名前を変えるわけです。

その「本門寺」の戒壇にご安置されるのが、戒壇大御本尊なわけです。

しかも本門寺の戒壇というのは本堂と別な場所に立てるのではなく、

本門寺の本堂をそのまま戒壇にするのです。

こうなった時が「事相」として広宣流布が達成された時であり、

それを日興門下の僧俗は目指しているわけです。

ただし、「法体」としての戒壇は大御本尊に備わっていますから、

日寛上人の文底秘沈抄に

◇然るに三大秘法の随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処尊しとは是れなり。

とあるように、現時点では大石寺が本門の戒壇となります。(もちろん事の戒壇です)

それに顕正会創価には大聖人仏法の御遺命を遂行する義務もなければ権利もありません。

身延相承書には

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば 富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり

とあります。大聖人の全ての弘法は日興上人に附属(任された)のですから

国立戒壇」と呼ぼうと「本門寺の戒壇」と呼ぼうと

「事相」の戒壇を建立する義務と権利があるのは日興門下だけです。

故に顕正会創価のやっていることは、

大聖人の御遺命でもなんでもないどころか御遺命に違反している行為です。

さらに言えば顕正会が仮に「国立戒壇」を建設したとしても、

今度はその戒壇にご安置する本尊がありません。

広宣流布の暁に「本門寺の戒壇」にご安置する御本尊とは

◆日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり(百六箇抄)

◇日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊は日目に之これを相伝す、本門寺に懸け奉るべし(日興跡条条事)

◇嫡嫡相承の曼荼羅とは本門戒壇本尊の御事なり(文底秘沈抄)

これらの御文から弘安二年の戒壇大御本尊であることは明らかです。

顕正会創価に弘安二年の大御本尊がありますか?ないでしょ?

だから、天皇折伏して国会で承認されスゲー建物を建てて本門寺と名乗っても

肝心な弘安二年の大御本尊をご安置できないので、

顕正会風にいうところの「事の戒壇」は100%完成しないのです。

100%無理なことをいくらなんでも大聖人が御遺命するはずありませんから

結局は、顕正会の言っている事は全て大聖人とは無関係なわけですね。

とまぁ~顕正会の与太話についてはいくらでも嗤うことができますが

顕正会員さんも創価同様に、邪法の人師に誑かされているわけです。

浅井センセの教学力なんてほんとうに大作センセといい勝負ですから(笑)

まぁ、大作センセの方が詐欺師としては大物ですかね。

どうせ騙されるなら、浅井程度の小物より大作センセに騙されたほうが箔がつくかもしれません。

どっちにしても、学会員さん同様に顕正会員さんもお早めに退会したほうがいいですよ。


にほんブログ村