創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

マイノリティーだからこそ(非意味的切断さんの質問への回答)

非意味的切断さんからの質問

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日蓮は正直なところかなりマイナーな人物だと思います。さらに日蓮の論の解釈の中でも、日蓮正宗の大御本尊信仰はかなりマイナーです。 世界史的にパースペクティブが広がっている仏教において、マイナーな日蓮正宗の大御本尊信仰を受容する理由は何でしょうか?

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について今日は書くよ。

非意味的切断さんだけではなく

多くの方も同じように思っていることでしょう。

昔、俺も折伏でこのご質問と同じようなことを

何度となく言われた。

そんな方々にお答えしようと思う。

日蓮正宗は極めて少数派である」

日蓮正宗の教義は極めて特異である」

などなど、日蓮本仏・大ご本尊信仰について

多くの学者や世間が否定している。

だからそれは間違ってる。

あるいは信じない。

というロジックで語る人は多い。

多くの人が否定しているから否定する。という考えだね。

では何故俺は、数多ある仏教宗派のなかで

超少数派の富士門流を選んで受容しているのかというと

その理由はたくさんがあるが、

今回の質問に即していうならば

「人数が少ない」からである。

「マイノリティー」であるからこそ「正しい」

それが俺の中での結論だからだ。

なぜ「少数」だから「正しい」のか?

それは現代は仏教でいうところの「末法」であるからだ。

(仏教以外の信仰者に対してはまた違う話になるので今回は除外する)

さて、この「末法」とはどのような時代かといえば

釈迦の説いた大集経によると「白法隠没」の時代である。

「白法」とは釈迦の説いた法のことで、

末法とは釈迦の説いた法が「隠没」。つまり無くなってしまうという意味だ。

そしてその白法が力を失った後に「大白法」が流布される時代。それが「今」「末法」である。

◆大集経の白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか(撰時抄)

ではこの「大白法」とは何か?といえば「釈迦の法」ではない「釈迦の法」を超えた法である。

結論を言うと「大白法」とは、大聖人が説いた「南無妙法蓮華経」である。

◆凡そ妙法の五字は末法流布の大白法なり(当体義抄)

仏教史においても釈迦が「南無妙法蓮華経」を説いたことはなく

「南無妙法蓮華経」を説いたのは大聖人お一人である。

で、ここからが本題で

この「妙法」を末法で信受するというのことは実に難儀なのである。

理由はいろいろあるが今日のところは難儀な理由はイロイロ書かない。

(話が飛んじゃうとわかりずらいので)

で、話を進めると

日蓮が強義経文に普合せり法華経の流通たる涅槃経に末代濁世に謗法の者は十方の地のごとし正法の者は爪上の土のごとしととかれて候はいかんがし候べき、日本の諸人は爪上の土か日蓮は十方の土かよくよく思惟あるべし(開目抄上)

◆仏末代を記して云く謗法の者は大地微塵よりも多く正法の者は爪上の土よりすくなかるべし、仏語まことなるかなや今日本国かの記にあたれり。(破良観等御書)

など大聖人の御書に書かれているように

末法においては「謗法の者」は大地のように多く

「正法の者」は爪の上の土ほど少ない。のである。

だからこそ「末法」なのである。

「正法の者」が多く「謗法の者」が少なければ「末法」と言わない。

「正義が少数派」となるゆえに「末法」なのである。

ここからは仏教徒目線で書くけど、

世界三大宗教の「キリスト教」「イスラム教」「仏教」

この中で「仏教徒」の人数は圧倒的に少ない。

というか「ヒンドゥー教」よりも「仏教徒」は少ないのである。

仏教でいうところの「外道」の方が圧倒的に多いの現実である。

この現実こそ「末法」であるという証明であり

だからこそ「仏教」が「外道」に勝っている証拠でもある。

もし、身延や他の仏教宗派が「多数派の方が正しい」というならば、

仏教は外道の法に劣るといのか?

ならば彼らは今すぐ「仏教」を捨てて

キリスト教徒にならなければ自語相違になるだろう。

(外道というのは「クサレ外道」っていう意味ではないので誤解なきよう)

さぁ、そう考えれば自ずと理解できる。

「大白法」の「南無妙法蓮華経」系宗派で

もっとも「少数派」である「富士門流」こそが

「爪の上の土」であることは明らかである。

なにせ、似非宗教・偽仏教の

「ホンモノのクサレ外道」の

創価」や「顕正会」よりも少ないのである。

つまり数の多い「身延」や「創価」が「爪上の土」で

数の少ない「富士門流」(正宗)が「大地」であるという解釈はありえないよね。

つまり「マイナー」であり「マイノリティー」であることこそ

富士門流」の教義が「正しい」「正法」であるといえるわけだ。

今が「末法」であるのならば

「謗法」の方が人数が多いはずであり

だとすればもっとも「少数派」である

富士門流」(正宗)が「正しい」

このロジックが一番俺の中では理屈が通るし

釈迦も大聖人も言われていることに符合するするんだな。これが。

この逆だと理屈は通らないし、

釈迦・大聖人の言われていることに齟齬があることになっちゃうでしょ?

それが、特異でありマイナーな正宗の

大御本尊信仰を俺が受容する理由ですね。

難しいことでもなく単純明快な理由だけど

文理に照らせば「富士門流が正しい」

という結論にしかならない。

もちろん理由はそれだけはないけど

今回の質問の即して極論を言えば

「少数だからこそ正しい」

俺はそう思う。(あくまでも極論です)

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