創価ダメだしブログ

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その題目、功徳があると思うの?

学会の幹部や活動家は、事あるごとに題目の功徳を口にする

ネットでもリアルでも、「題目には功徳がある」という。

そんな指導している幹部や、

ネットのブログを見聞きするたびに

「嘘言うなよなぁ~」ってツッコミ入れたくなる。

理由は、そのように宣っている人々が

どうして題目に功徳があるのかに全くといっていいほど触れてないからだ。

ただ、南無妙法蓮華経と唱えていれば功徳があるのか?

いや、それは断じて違う。

この信心で功徳が出るのはなぜか?

色々な側面で説明をできるがひとつは

祈祷抄によれば、諸天善神は仏に大恩がある

その大恩のある仏に、法華経の行者を守護すると約束したから

法華経の行者を諸天は護る。故に功徳があるのである。

では問題となるのは法華経の行者とは誰か?

ということが、当体義抄によれば、別して日蓮大聖人であり

総じて大聖人の弟子旦那ということになる。

そこで多くの学会員は大聖人に弟子かといえばそうじゃない。

別して法華経の行者の大聖人とは大御本尊であるわけだから

その、大御本尊を信受しないとか

大御本尊には功徳がないなどと宣う連中が

大聖人の弟子であるわけもなく

むしろ弟子だと名乗っていることすらおこがましい。

つまり、そうした連中の祈りなど叶う道理はないのだ。

また、別な角度からいうと、題目とは修行である。

修行とは正しく行わ無ければならないというのは常識だろう。

武道も、華道も、茶道も・・およそ修行というのは

正しく実戦しなけば効果ないのだ。

題目の修行とは、ひとつは題目を唱える対境が正しいかどうかが重要だ。

対境。つまりどの本尊に題目を上げるのか?

そこが一番重要である。

少し前にこのブログに、大聖人の出世の本懐が本門題目であるといコメントを書いてきた人がいたが

それは大いなる間違いで、出世の本懐は紛れもなく大御本尊なのである。

本門の本尊に向かって唱えるから本門の題目になるのは道理だ。

その大本である大御本尊を信受しない人間は正しく題目の修行をしていないである。

また、修行とは正しい所作をもって修行という。

「これはこのようにしなさい」と師匠が言っていることを自分勝手に変えたいたのでは修行と呼ばない。

社長がこの仕事をしなさい。といっているのに自分勝手なことをしている社員はクビになる。

正しい所作を行わない修行とはそういうものだから

自分勝手にやっていたのでは給料(功徳)をもらえる道理はない。

その意味で、今の学会の方便品・自我偈の勤行は正しい修行でない。

創価が自分勝手にやっているだけのモノである。

つまり修行じゃない。

修行じゃないのだから仏界など現れない。

仏界が現れなければ功徳はでない。

これも道理である。

結論から言うと、大本尊に信を取らない題目なんて

時間の無駄以外のなにものでもないもだ。

何の悩みもないお気楽な学会幹部や活動家は

暇つぶしに「本門じゃない題目」をあげるもいいだろうが

ホントに悩みのある学会員はキチンと【本門の】題目をあげてもらいたい。

自分の題目が功徳があるのか?

もう一度自分自身で学び確認して欲しい。

「学会がそういってるから」とか

「幹部のOOさんがそう言っているから」

そういう他人任せはもうやめて

自分自身が学ぶことが重要だ。

学べば決っと分かる。

大多数の幹部が嘘っぱち題目を上げて

魔の通力のことを功徳などと呼んでいる

可哀想な人たちであることが。

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