創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(29年度12月座談会御書・諸経と法華経と難易の事)

仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、

仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり

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今年最後の座談会御書は、「諸経と法華経と難易の事」(難信難解法門)の

超有名な一節ですな。

「仏法即社会」とか、或いは個人の信心に約して

「信心即生活」とかを指導・説明するときによく使う御文だね。

因みに「○○即☓☓」というのは

だいたい一念三千法門を分かりやすく言っているだけだからね。

同じ意味合いの御文は他にもいくつかあるけど

◆源濁りぬれば流浄からず身曲りぬれば影直からず(一谷入道御書)

なんかが良く引かれる御文かな。

で、今回の御文と上記の「一谷入道御書」の御文の前文には同じ内容が書いてあるんだね。

今回の御文の前文は

◆弘法慈覚智証の御義を本としける程に此の義すでに隠没して日本国四百余年なり、珠をもつて石にかへ栴檀を凡木にうれり

で一谷入道御書の当該御文の前文は

◆末学の者共本師の誤をば知らずして弘め習ひし人人をも智者とは思へり

この二つは、仏法が曲がる(誤る)原因は

仏典そのものが間違っているのでなく

その仏典を解釈した人師・論師が間違って解釈し

それを信じてしまうから正しい仏法が隠されてしまう。と言われているんだね。

つまり、正しい仏法を捻じ曲げてしまうのは

人師・論師とそれに追従する人々である。と。

そう、大作センセと学会幹部活動家

浅井センセと顕正会幹部活動家。

などが大聖人仏法を捻じ曲げている。ってことさ。

◆末の論師人師等謬執の年積り門徒又繁多なり。(曾谷二郎入道殿御返事)

故に大聖人は多くの御書で

◆我等が如き名字の凡夫は仏説に依りてこそ成仏を期すべく候へ人師の言語は無用なり(教行証御書)

などと、人師・論師ではなく仏説に従う事をご指南されている。

さてでは多くの人師論師は具体的になにを捻じ曲げるのか?

「仏法の体」とは一体何なのか?といえば

それは「本尊」に他ならない。

◆諸宗は本尊にまどえり(開目抄下)

仏法の体であるところの本尊は

◆本尊とは勝れたるを用うべし(本尊問答抄)

とあるように、最高・最勝を本尊と定めることが肝要であると大聖人は言われている。

当然のことだが、大聖人に言われている最勝の本尊とは

大聖人の出世の本懐たる一大秘法の戒壇大御本尊に他ならない。

しかるに、創価は大御本尊を捨て

人師論師である自分たちが勝手に本尊を決めている。

その姿は本尊に迷った姿であり

仏説を捨て人師論師の言説を無理強いした姿であり

大聖人のご指南を真っ向から否定して姿である。

その創価の教義を信じ強弁する活動家・幹部は

まさに「体」が曲がった姿であり、

当然彼らの言う功徳というものは「斜めの影」「濁った流れ」にすぎない。

しかし残念なことに、酔っぱらいには斜めの影も真っすぐに見え

濁った川の水も清流に見えるらしい(笑)

大御本尊も創価コピー本尊も同じ?

この御書を最初から読んでみたまえ。

法華経が難信難解の理由は、随自意だからなのだ。(基礎教学だが)

で、この次下の御文は

◆幸なるは我が一門仏意に随つて自然に薩般若海に流入す、世間の学者の若きは随他意を信じて苦海に沈まんことなり

と書いてある。

誤解を恐れずに言うならば

一大秘法の戒壇大御本尊こそが「随自意」の御本尊なのである。

キミ達の自宅にあるコピー掛け軸本尊も

学会本部にある盗品の書写本尊も

願主の申し出に応じて書写した随他意の本尊ではないか。

大聖人が随他意の経を用いるのはなぜか?

それは爾前の経でも法華経(随自意)につながればこそである。

決して爾前の経を「信じる」ためではないのである。

法華経(随自意)を捨ててしまったならば

随他意の経には何の価値もないのだ。

同じように、「随自意」の御本尊たる大御本尊をすてて

随他意の書写本尊をコピーした掛け軸なんぞに何の価値もないのである。

それは法華経を捨て爾前の経に執着している姿である。

「体」が曲がっていて「源」が濁っている。

そんな信心に万に一つの功徳はない。

◆世間の学者の若きは随他意を信じて苦海に沈まんことなり

との大聖人のお言葉をどう感じるのか?

それでもまだ大御本尊を捨てても功徳がある。というのは

全く仏説によらない、我見・邪義に他ならない。

もう年の瀬だ。

今年の謗法は今年のうちに大掃除した方が良いと思う。

まずは、大御本尊に対する「信心」を取り戻してほしい。

五座三座の勤行。できなければせめて寿量品の長行を読み

ご観念文で、大御本尊に報恩感謝する。

それだけでも、随分と「体」は真っすぐになるし

「源」も清められる。

この御文を学んだからには

◆仏意に随つて自然に薩般若海に流入

しようじゃないですか。

「仏意」とは大御本尊を信じることだ。


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