創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

ラキーチンさんと東大君のやり取りの感想

ここ数日ラキーチンさんが友人の東大生とのやりとりをコメントしてくれた。

今日は、そのやりとりを読んだ感想を書いてみる。

といっても、ラキーチンさんのコメントを読んだ

オトナの読者の皆さんは多分同じような感想を抱いたと思う。

とくに、子を持つ親の年代の読者の皆さんは

そう多分「自分の子供をこんな風に育てなくないなぁ」って思っただろう

そして「折角東大に入ったのにこりゃ成功しないな」って感じたと思う。

まぁ、分からなくもない。

若い頃ってのはこんな感じ。

学力に限らず何か他人より自分が多少秀でているものがあると

それだけで、自分を過大評価して他人を蔑みたくなるもの。

「俺はお前たちとは違う」といいたいんだろう。

良くわかるなぁ。俺もかなり生意気な若造だったから。

そのうち自分で気づくのだが、今の東大君は「何者でもない」

他人を蔑みバカにして「何者」かになりたいのだろうけど

残念ながら「何者」でもない。

敢えて言うならパラサイト。

東大君がバカにしている人たちの税金で

彼は道路を歩き、水道から水を飲み、病気になったら保険証を使い・・

今は単なる世間のお荷物でしかない。

そこを自覚できるのならさすがは東大生ってなるのだが

東大生もピンキリだからなぁ。

「東大生なんだ。すごいね~」って大人は言うだろうけど

別に本気でそんな風には思っていない。

東大生なんて掃いて捨てるほどいるし

東大生だからって「何かができる」わけじゃない。

何もできない東大生より、

同じ年齢の水漏れを治せる水道屋さんの方が世間ではありがたられる。

しかも水道屋さんは納税もして世間に貢献している。

それが東大君のいうファクトというものであり人生である。

世間の人間を見下すのは構わないが

人生の成功は世間から支持されなければなし得ない。

人生は「何(誰)と出会い何(誰)を選ぶか」だ。

そして出会いとは「運」であることもまだ東大君には分からない。

なので宗教を必要ない。と突っ張る気持ちはよくわかる。

理解していて必要ないと言っているのではなく

理解できていないから突っ張ってるんだなぁって少し可愛らしい。

まぁ東大君は今は何者でもないので

「東大生」という事以外にアイデンティティをたもてないのだろう。

東大君に限らずこのようなタイプは多い。

まだ「何者」でもない人間の方が自己主張が大きい。

「何か」になった人間は自分で自分が何者なのかいう必要はない。

そして「何者」かになった時におそらく信仰の力を認めるだろう。

それはさて置き、ラキーチンさんと東大君の対話は

最初は「創価」VS「正宗」の「法論」かと思ったが

どうやらそういう訳でもなかった。

ラキーチンさんは大聖人仏法の正義を語っているが

肝心の東大君は、創価の主張をするわけでなく

むしろ創価や大作センセをディスっているわけだから

「法論」だとしたらラキーチンさんの完勝である。

(大作センセは思想家としてBクラスという東大君には大いに賛同するが)

これが「法論」であれば、俺ならば東大君に

「だったら何で創価に居るの?君が創価にいることは君自身が言っていることと整合性がとれないじゃいないか」

といってひとしきり攻めたのちに

「ね?人生ってのは理論通りに行かないんだよ。君の現状をみてるとやはり信仰が必要だと感じるよ」

或いは

「哲学をよく知ってる割には言動不一致だね~。口だけ番長か君は」

と言って大笑いするか。

まぁそんな感じかな(笑)

だたそれをやると相手はムキになるよ。

で、最初から破折でなく弘教しようと思っていたのなら

初っ端から「日蓮正宗は正しい」というアプローチは失敗かな。

流石に東大生を折伏したことはないが

この手のタイプはさっきも書いたが多い。

でも実はこの手のタイプが一番折伏しやすい。

なぜなら「理解力」があるから。

なのでいきなり「~が正しい」とやると反発する。

ゆっくり時間をかけてきちんと道理を説けば納得するのでラキーチンさんには頑張って欲しい。

さて、今回ラキーチンさんは東大君相手に随分と悔しい思いをしたようだが

それは、ひとえにラキーチンさんの「法論」への経験不足であって

何も悲観的になることはないと思う。

まぁ「法論」なんて滅多にやらないからなかなか経験はつめない。

なので今回の事はラキーチンさんにとっていい経験になったと思う。

「法論」と「折伏」は似て非なるものなんだけど心構えは同じだと思う。

それを少し書くと

まずは「相手を畏れない」こと。

今回も相手が東大生あることで

そこに多少の畏怖の心があったのではないか?

相手の方が知識があるとか頭がいいとか。

で、東大君の方はそこを巧みに利用している

いわゆる「権威的詭弁」というものである。

よく聞けば東大君の主張は何も目新しい事を言ってるわけでも

高尚な事を言っているわけでもない。

身延信者なら高卒の信者でも言うようなことであわてる必要などない。

しかも、彼自身のオリジナリティもどこにもない。

どこかで何度も聞いたことがあるようなことを繰り返しているだけ。

彼は彼の論評する大作センセとまったく同じで

思想家としては大作センセより経験値が少ない分「C」クラスか(笑)

仏法の話なのに「仏法」らしい事は何も言っていない。

カントやウィトゲンシュタインなんて

仏法には何も関係ない話を持ち出すところが

「D」クラスの創価活動家に近い。

要は彼は自分の土俵の上で戦いたいだけ。

逆を言うと相手の土俵で戦うだけの

能力を持ち合わせていない。と言う事である。

そしてまんまと東大君の土俵に乗せられてしまうのは

相手(東大君)に対し心理的な畏怖を抱いてしまうからではないか?

学力や地位の高い人間ほど「権威的詭弁」を弄する。

それを見抜けば本当に言っている内容は大したことがない

相手が誰であろうと大聖人仏法を語るときは恐れてはいけない。

これこそが「法論」に絶対的に必要な心構えである。

そしてその根本・源泉となるのは、

大聖人仏法への大御本尊への「確信」だ。

◆信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり(生死一大事血脈抄)

大御本尊への信がなければ、いくら教学を学んでも無益だ。

単なる知識や学力だけでは「法論」には勝てない。

今の創価活動家がまさにその状態。

大聖人仏法が凡夫の論説に破られることなど間違ってもあり得ない。

だから相手が誰であっても何も恐れることはない。

その上で御書を学び日寛上人をはじめとする御歴代のご指南を学び

とことん突き詰めて理論武装をするとともに

「法論」(ディペート)にはそれなりのテクがあるので学んでいけば

この東大君程度であれば何もビビる必要もないだろう。

ラキーチンさんには、大聖人仏法の正義を

大いに語る論客になっていただきたいと切に願う。

最後になるがラキーチンさんの

東大君への下種は成功しているので

もう折伏は完了している。しかも大成功だ。

東大君から悪口罵詈されているのがその証拠だ。

創価の活動家みたいに選挙活動で悪口を言われているのではなく

大聖人仏法を語って悪口罵詈されたのだから胸を張っていい。

二人の勝負は始まったばかり。

勝負はまだ先だ。

東大君のいい友人として

彼と長いお付き合いをしてほしい。

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