創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

伝統の2月物語

今日から2月。今年もあっという間に1ヶ月が終わちゃったね~。

2月といえば、ご本仏・日蓮大聖人が生誕された意義深い月・・・なんですが

創価では大聖人生誕より、戸田2代会長の誕生日。

そしてそれ以上に「伝統の2月」「2月闘争」なんて方が優先で

「2月は大聖人様ご生誕の意義ある月だよ」なんていうヤツはいね~な。

そもそも大聖人の誕生日すら知らないんじゃないのか?いまの若い学会員は。

「伝統の2月」「2月闘争」って知らない方に簡単に説明すると

昭和27年の2月に、その前月(1月)に当時の蒲田支部支部幹事となった

若干24歳の若き大作センセの大活躍により

それまで支部100世帯が折伏の限界とされていたのに

それを大きく上回る「支部201世帯折伏」とう金字塔を打ち立てた。

っていう物語である。

いくつかある「池田伝説」のひとつである。

で、この物語の間違いのない事実は、

①蒲田支部が1ヶ月201世帯の折伏をした。

②24歳の大作青年が蒲田支部の「支部幹事」をしていた。

この二つだけ。

残りの物語・・・つまり山本伸一君(大作青年)が

たった一人が全てを劇的に変えた。

というようなカツドウカさん達が思っているような客感的な事実はなく

「小説人間革命」に書かれているのは大作センセの私感で、

ぶっちゃけ、大作センセの妄想?空想?の世界観だ。

(だから小説なんだけどね)

それを「真実」だとカツドウカは心底思っているわけだ。

「そんなこというオマエは何を知ってんだ!」との反論もあるだろう。

確かに知らない。昭和27年じゃ俺は生まれてね~し。

でも客感的に見てみると、

大作センセが言うような大袈裟なことには思えない。

もしも、その2月闘争とやらが後世に残るようなことならば

その当時にもっと話題になってもいんじゃないか?

もしかしたら、蒲田やその周辺で

多少の話題にはなっていたのかもしれないが

肝心な戸田先生が「2月闘争」に言及した記録が

ほとんどないのは合点がいかない。一体何故?why?

戸田城聖全集・第4巻」には、昭和28年からの講演が掲載されているが

蒲田支部が大興隆していて人材を陸続と輩出している。

ということは書いてあるが、それ以上のことは書かれていない。

もちろん「池田のイの字」も「大作のダの字」も書いていない

(つまり言ってない)

昭和27年当時聖教新聞も同じで

そんなに大活躍した大作センセを称えるような記事もない。

そこで考えられるのは、戸田先生は

支部201世帯の新記録も特になんとも思っていなく当然と考えていた。

②大作センセを支部幹事にしたらか201世帯折伏ができた。とは思っていなかった。

などいくつか思い浮かぶが

いづれにしても「大作センセ」の活躍は、

戸田先生にはそれほどの「大活躍」

には見えなかった。思わなかった。ということだろう。

それはそうである。

若干24歳のしかも「初陣」で、年齢も経験もない大作青年に

いい大人が揃いも揃って傾倒するはずはない。

もちろん大作青年がそりなりの何かがあれば別だが

20代の大作センセは、お世辞も「教学力」あると思えず

(これは想像でなく20代の大作センセの発言などを読んだ感想)

かといって、皆の先陣を切って個人折伏をバンバン決めた。という事実もない。

個人折伏については「随筆」でアパートの隣人を折伏した。と書いてあったが

その人に本流したかどうかまでは書いてないし

創価の会員のなかで、「私は池田先生に折伏されたんですよ」って人を見たことないし

そうした話すら聞いたこともない。

「学」も「行」もない幹部の言うことを聞くのは、同じようなタイプの会員だけで

折伏をバンバン決めるような会員さんは

そうした幹部の言うことを聞かないと思われる。

つまり、俺の想像する「2月闘争」では

大作青年は、一応は個人折伏する体はしておいて

あとは専ら会員回りして激励したり

あとは一会員さんの知らない戸田先生の話をして回っていた。

そしてたまたま昭和27年の2月に「201世帯」という結果がでた。

そんなところじゃないかと思う。

たまたまでなければ連続で何ヶ月も200世帯以上の折伏ができているし

200世帯どころか300世帯とかの新記録が続々生まれていいはずだが

どうもそんな陽気じゃないようだ。

だから戸田先生時代には「伝統の2月」なんて合言葉はなかったのだと思うし

仮に戸田先生も「伝統の2月」と言ってたとしても

別に大作センセ一人のお手柄だとは思っていなかっただろうと思われる。

こういう幹部いるよね~。

てか幹部ってこうだよね。

部員さんには友人を会合などに連れ出してくるように言うけど自分では連れてこない。

ただし誰も知らないところで「友人に仏法対話した」と自己申告して「折伏の体」だけ作る。

でも実際に本流はできない。

で、会員さんが折伏の為に友人に会いに行ったり電話したりしてるのに

自分たちは個人折伏そっちのけで、

部活やらなにやら呼んでもいないのに来てイロイロ言って帰っていく。

本人は「激励」したつもりなんだろうが、来れる方はいい迷惑。

一度ゾーン男が本部の男子部の部活に来たときに

「俺たちは折伏してるし激励なんていりません。それよりもゾーン男自身が折伏決めてください。ゾーン男だってうちの本部なんですから。まずゾーン男から結果を示してくだだい。こんなところに来てないで友達に折伏しに行ってくださいい」

と皆の前で言っちゃったことがあったなぁ。

そりゃ俺を組織から追放したくもなるわな(笑)

まぁ、このゾーン男に限らずそういう幹部ばっかり。

で、自分たちは折伏1世帯も決まらないくせに手柄は自分のもの。

件のゾーン男なんて俺たちのやった折伏の結果のお陰で本幹で大作センセにあえたんだけど

そのあと言った言葉が「先生にお会いしたいとずっと祈ってきた願いか叶いました」だとよ。

まずは折伏決めた俺たちに「ありがとう」じゃね~のかよ。

まぁ、彼の脳内では「俺が指揮して皆を激励したから結果がでた。俺の信心の勝利だ。」という

物語が描かれていたんだろうね。

これか?これが昭和27年2月からの「伝統」なのか?

そうだよね。折伏の伝統なんてないもんね。

半世紀も前の記録を破れないのだから、

それはもはや「伝統」じゃないよな。

ただの「創価昔ばなし」だよな。

いまでも伝統と呼べることがあるとしたら

「会員の手柄は幹部が独り占め」

「会員が結果を出せたのは幹部の指導・激励のたまもの」

っていう発想くらいしか残ってない。

その発想の大元が昭和27年2月の

大作青年の戦いにあったんだな。

それが「2月闘争物語」だな。

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