昨日、第三文明の松岡・佐藤対談
「創価学会とは何か」の記事について書いたけど
今日はその続きを書こうと思う。
全体的に思わず笑っちゃうツッコミどころ満載の対談で
例えば、「折伏」についての回では
(松岡)危険な宗教かそうでないかは「敵対者を尊重できるかどうか」を見ればわかります。
と言っている。
宗門に対する態度を見ると、創価は危険な宗教である。という結論になっちゃうね。
まぁ、万事この調子で自分で自分の首を絞めてる発言が多い。
それはさておき、この対談を通して読むと
何が何でも池田センセを絶対的存在としようとする意図が見える。
例えば三代会長を語ると言う回では、
(松岡)釈尊は仏教の創始者、日蓮は完成者、三代会長は実現者であると言えましょうか。三代会長は、釈尊から日蓮に至る仏教史のいわば「総仕上げ」の役割を担ったのです。
また、最終回では
(松岡)日蓮が天台の教えに従って正しく仏典を読み、創価学会は日蓮の教えに従って正しく法華経を読んだ、そして今、学会員は池田会長の教えに従って正しく日蓮の御書を読んでいると言えます。智者である池田会長が認めた御書は全て真正テキストと認めてよいというのが私の考えです。
と、このように言っている。
正直頭がおかしい。としか言えない。
こんなやつが教授や僧侶の肩書を持っているというからお笑い草だ。
松岡の言っている事は、池田センセは、釈尊や天台そして大聖人と肩を並べている。
つまり、釈尊・天台・大聖人・池田大作が同じだと言っているわけだ。
事もあろうか御本仏・日蓮大聖人と同列に並べ語るとは
増上慢も甚だしい。
何が「総仕上げ」だ。
総仕上げってのは広宣流布が全て終わった時にいうセリフだ。
「総仕上げ」どころか、創価という最大級の謗法団体を作り上げたのが池田センセだ。
「池田会長の教えに従って御書を読む」だと?
その結果、大御御本尊を信受しないとしたのだろう。
これのど・こ・が正しく御書を読んでいるのか?
大御本尊をすてないだけ、顕正会の浅井の方がまた正しい。
しかもいうに事欠いて、池田会長が御書を認めるだと?
何様のつもりだ。
大聖人の御書をなんで、池田大作ごときが認めるだの認めないだの言えるのだ。
御書を「認める」「認めない」なんて言い草あるか。
御書ってのは信じるもであって認めるとか認めないかってもんじゃない。
認めるとか認めないってのは、結局御書を信じていないという事であり
信心が無いということだ。
同じ最終回には、御書には偽書もある。なんて言っているが
真筆があってもなくても、結局は池田センセが認めるか認めないかで判断するってことだろ。
所詮、その程度なのが創価教学ってヤツの正体だ。
もう完全に、池田本仏の池田教である。
一体、どこまで創価はつけ上がるのか。
そしてこんな洗脳をいつまで会員に施すのか。
バリ活さんは、池田本仏でも池田教でも望む所なんだろうが
ここまで日蓮大聖人を下しておいて
いつまでも大聖人仏法を利用している創価。
心ある会員さんは今すぐにでも創価の活動を止め
創価への布施を止め。
大聖人に帰命して欲しいと願わざるを得ない。
それが自分自身の幸福であり、愛する人達の幸福への道だ。
◆汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや(立正安国論)
「創価学会とは何か}というこの対談の結論は
創価学会とは、池田大作という凡夫を無理やり仏と同格に見せかけて
池田大作という凡夫のいうことを信じている団体。ってことかな。
仏法なんてどこにもないじゃん。