まずは、コメントありがとうございます。
いただいたコメントに対する私なりの見解を書かせてもらいます。
勤行の五座三座の件。
仰る通り勤行の形式は変わっているだろうし
これからも変わっていくのだと私も思います。
コメントを読むと正宗がウソを言ってるとの事ですが
五座三座が変わっていないってのは
ウソと言えばウソかも知れません。
ただし修行の在り方としては
現在の創価の勤行の方が全くの大ウソと言ってよいでしょう。
何が一番の問題なのかと言えば
在家が勝手に化義である勤行様式を変えていいのか?ってことです。
日蓮大聖人以来、在家が勝手に勤行様式を決めた。と言う事は皆無です。
そもそも在家が自分勝手に修行していいなら
もう仏法でも何でもない。
創価上層部は勤行形式を変えた時にその事を説明していないのです。
教学的に見ても、現在の創価の方便品・自我偈の勤行は誤りです。
寿量品読誦するのは、所破・所用故です。
で何を所用するかとえば言うまでも無く文底の南無妙法蓮華経であり
この所用すべき南無妙法蓮華経は自我偈の文底にはありませんから
長行を読誦しなければ寿量品読誦は意味を持ちません。
それに対し創価の言い分は、
自我偈には大聖人のエッセンスが全て入っているから自我偈でよい。
という趣旨のものでが、
これは自我偈に説かれている法体と修行を混同している邪義です。
◆自我偈は自受用身なり
◆諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う
とあるように、自我偈とは「法体」です。
対する勤行は修行ですから、
この二つを混同してはいけないのです。
更に、
◆されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ
と大聖人は寿量品の長行を読む修行をしないさい。と言われてます。
またKさんは、
>日寛上人の「朝暮の勤行は但両品に限るなり」の文を引き、「既に勤行は
五座・三座になっている」と書いているが、「但両品に限る」が、どうして「五座・
三座」なのかという説明もせず誤魔化しており、説得力が全然ない。
と言っていますが、
日寛上人は、報福原式治状に
■「若し堪えたらん人は本山の如く相勤むべし、若し爾らずんば十如自我偈)題目なりとも五座三座の格式相守るべし」
と言われてますので、日寛上人時代には五座三座の形式が有った事は間違いありません。ですからKさんの言うようなコマカシや説得力がないというのは当てはまりませんね。
むしろ、創価の「五座三座の勤行はしなくて良い」
「寿量品の長行を読まなくていい」
という主張の方が何の説明もせず誤魔化していて、何の説得力もないと思います。
そして何の説得力もないとえば
Kさんの
>日顕という血脈詐称
この発言です。
血脈詐称などど言っているのは創価だけです。
一体何を持って血脈詐称なのか?
ここも創価上層部は、仏法上の説明をしていません。
そもそも、学会は勤行形式を変えたのも
本尊義を変えて学会が本尊を認定するのも
独立した宗教団体の当然の権利だと言っているわけです。
正宗もまた独立した宗教団体ですから
正宗が決めた事を、学会がとやかく言える筋合いではないのです。
正宗の当然の権利なのですから。
自分達には口出すな
でも、俺たちは宗門に口出しするっていうのでは
世間様からみればなんと身勝手なのか?と思われます。
論証できない【血脈詐称】などと言う発言は
デマと同じだと思います。
最後になりますが、Kさんの発言は、
まんま、フェイクの記事の貼りつけなんですが・・・
http://www.3colorflags.net/sintyaku4/2005012641.txt
非活動壮年部ですよね?
だったら、フェイクなどで研鑽しないで
御書や日寛上人の書を読んだ方かいいかと。
余計なお世話ですがそう思いましたので。