先日、知った顔の学会員2名と
15年ぶり位に会った。
男子部時代に時折会う程度で
ここ15年は、親交は全くなかった人達なんだが
別の俺と仲のいい会員経由で会う事になった。
会う前から鬱陶しかったんだが
会って話すと案の定鬱陶しい話だった。
話ってのは例の教義変更の件についてなんだけど、
俺が仲のいい学会員に色々と学会批判をしているのが気に入らないらしく
向うの言い方をすると指導しにきたらしい(笑)
なんの関係もない人間に指導される覚えはないが
一応折角だから話をきいてあげた。
以下その時の会話の趣旨
「OOさんは今回の学会の教義変更について不明点があるみたいですね」(学会員)
「不明点などをありませんよ。間違っているのは明らかだから」(私)
「何が間違ってと思っいるんですか?」
「一番は戒壇大御本尊を信受しないというところだね」
「それはOOさんの勘違いですよ。大御本尊を信じないのでなく受持しないだけです」
「あのさ、大聖人仏法における受持って意味知っている?信受とは受持なりだよ。信のない受持なんてのは大聖人仏法にはないんだよ。信じているけど受持しない。なんてのは、詭弁でしょ?」
(しばらく信受と受持の話がつづき)
「じゃぁあんたは謗法の大石寺や身延の御本尊を信受できるのか?」
(この辺からOOさんから、アンタになる。おいおい何アツくなってんだかと思いつつ)
「あのさ、大石寺の御本尊と身延の御本尊は違うし、そもそも大石寺と身延じゃ最初から違うでしょ」
「大聖人が顕わされた御本尊にどんな違いがある?」
「そりゃ一大秘法の大御本尊と分身散体の御本尊は違うでしょ?戸田先生が言ってじゃない」
「それは正宗に合わせて言っていだけ。大聖人の魂を入れて書き顕わした御本尊は全て本門の本尊なのは当たり前じゃないか」
(当たり前じゃないかって・・・)
「そう、ならば全部の御本尊が等しく同等ならば大石寺の御本尊を信受しないのは謗法でしょ?」
「だから、大石寺は謗法の地になったろう。謗法の地に大聖人の魂は住まないのだよ」
「ならば、法魂が無いのと言うのなら大石寺の本尊は本門本尊じゃないでしょ?さっきは大石寺の本尊も等しく本門本尊と言ったよね?アレはうそ?」
「そう言う事を言ってんじゃないよ」
(いやそう言う事いってるでしょ)
「それにさ、大石寺が謗法だと言う根拠は何なの?」
「何をいまさら。地涌の菩薩である先生や学会を破門する事が謗法でなくてなんだというのだ?」
「じゃぁ、名誉会長や学会員が地涌の菩薩であるという文証は?」
「そんなもの文証など無くても実証を見ればわかるだろ」
「いや分からないから聞いているんだけど?」
以下不毛な会話が小一時間続き最後に
「あんたが何を言おうと勝手だが、あんたの我見を会員に言って回るのは破和合僧の謗法だ。これ以上続けたら除名も検討しなきゃならない。それでは可哀想だから今日は忠告しにきた。よく考えてくれ」
だって(笑)
あの~、破和合僧は謗法じゃなくて五逆罪なんだけど。
てか、俺を、指導するにせよ、破折するにせよ、恫喝するにせよ
一応君たちある程度の幹部なんだから
なんでもいいからも少しお勉強して来てね。
しかし、ホント何しに来たんだろ。