創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

久遠元初・即座開悟について(寝言丸さんの質問への回答)

寝言丸さんからキリスト教関連の記事に対して「久遠元初」「即座開悟」等に関する質問があったのでお答えしたいと思います。そこでまず個別の質問に答える前に仏法における「時空」の捉え方の基本を書きます。御書にも引用されていますが妙楽大師が『弘決』において「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」と述べているように久遠元初の御本仏は「時間」や「空間」を超えて法界に遍満する「超時空」の存在なのです。だから「時間軸」の視点から仏法を理解しようとするのは少し視座が違います。「時間は存在しない」という考え方は現代理論物理学でも多くの学者が支持する理論でもあり哲学においても同様です。「時間」が存在しないならば「空間」も存在しません。仏法では「時空」は「非空非有・亦無亦有」(中道)であると説いているのです。これが仏法的視座に立った「時空」の捉え方です。これを前提に質問に答えると(太字は寝言丸さんのご質問)

>始まりがなければ終わりはない、言葉ではそうかもしれませんが、久遠元初という元の初めがある

「久遠元初」というのは「久遠実成」の対する言葉で「久遠実成の当初(そのかみ)」という意味ですがこれは「先後」という時系列を意味しているのではありません。本果である「久遠実成」に対して本因の「久遠元初」を示しているのです。つまり時間的な「先後」ではなく因果を示しているのです。「初」というのは「始まり」という意味ではなく「本因」という意味です。この「本因」は冒頭で書いたように「非空非有・亦無亦有」ですから「無始無終」です。本因がそうであれば本果も同じですから当然「因果具時」となり因と果にタイムラグはありません。因も果も「無始無終」なのです。

>即座開悟もいまいち不明瞭なままスルーしてます。

「即座開悟」については『三世諸仏総勘文教相廃立』に「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」との御文がありますが、この御文は凡夫にも理解できるように三身に約して法体を示している譬喩的な御文です。即ち我が身は応身(仮諦)、地水火風空法身(空諦)、知ろしめしては報身(中諦)という意味です。久遠元初には時間軸がありませんからこの三身(三諦)は本来は同時に存在しているのです(無作三身)。しかしそれが凡夫には理解できないから一応としてこのように説明しているのです。実際には我が身を離れて地水火風空知ろしめしても無いのです。これは法身・報身についても同じことが言えます。つまりこの三身・三諦は同時・同体なのです。また仏法には仏界所具の人界と人界所具の仏界の違いによる能所の区別はありますが「成仏」と意味においては凡夫と仏の生命に差異はありません。「悟れば仏・迷えば凡夫」です。キリスト教では人間は神になれませんが仏法では人間は成仏できるのです。そして「即座開悟」とは御本仏が悟って仏になったという意味ではなく最初から南無妙法蓮華経だったということです。「即座開悟」とはあくまでも教相面の表現であって観心においては「無始無終・人法一箇の南無妙法蓮華経」の法体を示しているのです。

> 仮に大聖人様の仏法の側から説明しても神も無始無終で初めから神なのだと言われたら…… かつて人だった仏は良くて神がダメな理由…… 

これは論点が違います。キリスト教において神が初めから神であったかどうかが問題なのではなく、「神が世界を作った」という教義が問題なのです。最初から存在していた神が全知全能の力で「無」から全てを作ったとしても作られたものは必ず滅するのが道理であり因果です。従ってキリスト教では世界の全てに「終わり」があるのです。人間が信仰によって神になれるなら永遠性は担保されますが、前述の通りキリスト教では人間は絶対に神になれません。天国があろうがなかろうが自分という「己」は期間限定の消えてなくなる存在なのです。「己」が消滅するのであれば苦楽も善悪もまた放置しておけば自然消滅するので進んで善を行う意味も悪を懺悔する必要もないのです。このようにキリスト教においては人間は存在しているときは神の支配下に置かれていつか完全消滅するのです。つまり究極は「己」は「無」なのです。だからキリスト教では「有」である時点の事しか説き表せない。それは宗教の一番重要なファクターである「死」の対して無回答であるのと同じです。なので仏法と比較するとキリスト教の教えは非理であり理論破綻の多い瑕疵宗教と言わざるを得ません。前回のキリスト教に関する記事は『創世記』の最初の部分だけ取り上げて書きましたが、「アダムとエバ」や「ノアの箱舟」なども非理であり瑕疵教義です。キリスト教についてはまた記事で色々と書いていきますが、とりあえずご質問に関する回答は以上の通りです。

 

▼一日「イチ押し」お願いします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

 

御書に書いてない⁉池田創価のインチキ法門②「人間革命」

師弟不二」よりも酷いインチキ法門と言えば「人間革命」だろうな。創価公式によると「人間革命」とは、自分自身の生命や境涯をよりよく変革し人間として成長・向上していくことらしく創価思想を凝縮した言葉だそうだが、勿論「人間革命」などという言葉は御書には書いていない。御書に書いていないどころか創価オリジナルでもない。創価における「人間革命」の初出は昭和24年8月の戸田城聖会長の巻頭言(戸田城聖全集第1巻)である。

この「人間革命」は政治学者であり東大名誉教授だった南原繁氏のが初めて使った言葉である。その内容を一部抜粋すると「人間そのものの革命「人間革命」を成し遂げねばならぬ。われわれは単に政治的或は社会的生活においてのみでなく、人間存在の内容そのもの、内的思推の革命をなす必要に迫られている。こいれは道徳的宗教的なる「精神革命」、また「文化革命」であり、これなくしては民主的誠二革命も空虚であり、遂に失敗に終わるであろう」(人間革命・南原繁著)という内容である。この南原氏の言葉を戸田会長が引用したの創価の「人間革命」の始まりだ。そしてその巻頭言から2年後に戸田会長は自身の小説に「人間革命」という題名を付け池田大作もそれに続き、いつの間にか南原氏の言葉だった「人間革命」は創価学会が提唱した創価のオリジナルのようになったしまった。つまり「人間革命」という言葉は、創価が南原氏から【借りパク】して素知らぬ顔して自教団の根本思想としてしまった盗作創価教義なのである。信仰の根本である本尊だけでなく教団教義に使っている言葉まで盗作なのが池田創価の実態だ。ゴーストに小説を書かせていることで「池田代作」とネット界隈では揶揄されているが代作というよりこれでは「池田盗作」だ。著作権関連で会員にスラップ訴訟を連発している創価だが自分たちも著作権を犯しているのではないか。いや【借りパク】だから横領罪だろうか。いずれにしても、「人間革命」は南原氏の言葉であり大聖人の御書には書かれていないインチキ創価借りパク法門である。そのように批判すると「人間革命という言葉は御書の思想を現代に分かりやすく解釈した言葉である」と反論する学会員もいる。正宗に対しては御書に書いていないことは邪義だというくせにいけしゃあしゃあとどの面下げて言ってるんだよと思うが、確かに戸田会長がは南原氏の「人間革命」と創価の人間革命とは「内容と方法が異なっている」と説明している(上画像を参照)それでは戸田会長が言う(考える)「人間革命」の内容と方法はいかなるものか?それは同じ巻頭言の最後に明記されている。

「しかるに、一般社会人は、仏法の実体も知らず、ましてや三大秘法随一の、本門の本尊も知らない。よろしく宗教改革を唱え、人間革命を叫ぶ者は、日蓮大聖人のご教示対して、深く思いをいたすべきであると、信ずるものである」と戸田会長は言っている。いうまでもなく戸田会長のいう「三大秘法随一の本門の本尊」とは本門戒壇大御本尊に他ならない。即ち戸田会長の主張する「人間革命」とは本門戒壇の大御本尊に対する信仰によって成し遂げられる自己改革であり、その解釈であるならばギリなんとか大聖人の御書の意を汲んだと言えよう。しかるに現在の池田創価戒壇大御本尊を棄ててしまったのであるから戸田会長のいう「人間革命」は創価組織の中で達成することはできないことは明白である。【借りパク】したスローガンだけの有名無実の「人間革命」を目指して無駄な時間で人生を消費させられているのが創価学会員なのだ。「イカサマ人間革命の呪縛」から一日も早く逃走することが、あなたの本当の人間革命の第一歩なのである。

創価・顕正からの退会・正宗への移籍のご相談はメールでお気軽に。※正宗への勧誘目的ではありません。sokadamedasi@gmail.com

 

▼一日「イチ押し」お願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

聖書的創造論を破折する。【キリスト教】

世界宗教NO.1と言えば知っての通りキリスト教。世界人口の約1/3がキリスト教徒と言われている。将来的にはイスラム教徒がキリスト教徒の数を上回ると予想さているが元はユダヤ教からキリスト教が生まれキリスト教からイスラム教が生まれてるのでこの3宗教は共通点も多い。キリスト教ユダヤ教イスラム教と違うのはイエスを神と位置付けているところでユダヤイスラム教徒にとってイエスは人間である。キリスト教は大きくカトリックプロテスタントに分かれるが仏教同様に多くの教派が存在する。統一教会エホバの証人ものみの塔)もカルト教というカテゴリーが無いならキリスト教派にカテゴライズされるだろう。今回はそうした各論ではなくキリスト教系(ユダヤイスラム教を含む)の根本部分の不条理を指摘したいと思う。キリスト教系の宗派の共通聖典は『旧約聖書』で『創世記』に書かれている「アダムとエバ」や「ノアの箱舟」などは知っている人も多いだろう。その『創世記』の前半にキリスト教系の信仰観の根本である【この世界の全ては神によって作られた】という話が書かれている。いつも言うように信仰には「信仰的事実」というモノがあるから聖書の内容を科学的根拠がないなどという陳腐な台詞で否定する気はない。問題はその内容に信仰に資する合理性があるかどうかである。結論から言えば『創世記』に書かれている内容にはいくつもの非理と瑕疵がある。全てを書き出すと長くなってしまうので今回は【この世界の全ては神によって作られた】という根本部分を取り上げる。キリスト教では神が「無」から世界を創造したとしているが、理論的に「無」から「有」は生じない。何故なら「無」は「有」に依ってのみ存在するからだ。つまり「有」が存在しない限り「無」は存在しない。存在する者(有)は無くせるが何もない状況(無)から何かを作ることはできない。「神は全知全能だから無から有を作る事が出来る」というような反論は神が全知全能であることを論証しなければならず循環論法による誤謬(詭弁)なので議論に値しない。聖書に書かれいる世界創造以前状態である「混沌(カオス)」というものが「無」であるならばカオスから何も生まれないので世界は作れないし、「有」であるならば神が世界創造する以前にカオスという世界が既に存在していたのだから神が世界の全てを創造したことにならないので聖書的創造論は破綻する。「混沌(カオス)」が何であるかは聖書からは読み取れない。もちろん私は神学を学んでいるわけはないのでキリスト教徒がこの問題をどのように解釈しているかは知らないが「混沌(カオス)」が無でも有でもどちらにしても【この世界の全ては神によって作られた】という理論は納得いくものではない。よしんば【この世界の全ては神によって作られた】という理論を容認したしよう。そうすると今度は神が創造した全ての存在に永遠性が無くなる。作られたものは必ず消滅するからだ。始まり(作られた)があるものには必ず終わり(消滅)がある。終わりがなければ始まりといわない。消滅しなければ作られたことにならない。キリスト教の敬虔な信徒として良い事をして死にゆくときに満足感を得ることは素晴らしい事だと思うが、そうした人生の満足感を得るだけならば信仰は要らない。「良い事」をして生きて満足して死んでいけばいいだけである。信仰が信仰たる所以は「死」に対する教え(回答)があるからだ。一応はキリスト教の死後観は「召天」して天国で復活の日まで過ごすとされているが今述べたように作られた存在(有)は必ず消滅する(無)のが道理だからキリスト教の理論だと永遠の生命も永遠の天国も存在しない。従って人間は復活しない。新たに別の人間を神が作るだけである。このようにキリスト教では信仰に最も重要なファクターである死について明確な答えは得られない。それは全て【この世界の全ては神によって作られた】という聖書的創造論を根本に置いているからだ。ここにキリスト教の教理の瑕疵がある。このように物事の因果を無視したキリスト教は不条理で人間が幸福になれるような信仰ではないと思える。

 

▼一日「イチ押し」お願いします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

 

 

 

 

寝言丸さんのお姉さんが勧誡を決意されたそうです!

当ブログの読者の寝言丸さんからお姉さんが創価を退会し勧誡を受ける決意をされたというLINEをもらいました。私は寝言丸さんの勧誡の時に携わらせていただきお付き合いをさせていただいており彼のお姉さんの件も少し聞き及んでいたので正直いって寝言丸さんのお姉さんか創価から正宗に移籍するのは相当ハードルが高いと感じていたので今回の報告を聞いて驚くやら嬉しいやらでジーンときました。経緯についてはプライベートなことなどで私の方からは言えませんがお姉さんが勧誡を受けて大石寺に御登山したいと言われたそうです。お姉さんが何らかの不満・不信を創価学会に感じた面もあったと思いますが、寝言丸さんが諦めずに折伏を続けたこと、そして何よりも寝言丸さんに正宗に移籍してからの姿がお姉さんに戒壇大御本尊様の力を知らしめたのだと思います。それが決め手だったのでないかと感じます。親族は他人よりも長くそして頻繁に自分と接しているわけですから親族に折伏はやはり自分の日頃の言動が決め手になると思います。これで寝言丸さんは主要な家族全員への折伏を成就したそうです。亡くなったお父様に対する最高の親孝行であり喜ばれていると思います。「折伏は途中でやめなければ絶対に成就する」というのが私の昔からの信念ですけど今回の寝言丸さんの報告を聞いて自分の折伏信念は間違っていなかったと自信になりました。私も一応は親・子・兄弟・妻と正宗信徒になりましたが甥や姪、義母・義弟・義妹とまだまだ折伏すべき一族が大勢いるので頑張りたいと思います。それにしても当ブログの読者の人達の折伏成就の御報告はいつも自分のことように嬉しいし勇気になります。ありがとうございます。寝言丸さんのお姉さんの勧誡式の日まで魔が入らないように御祈念させていただきます。

創価・顕正からの退会・正宗への移籍のご相談はメールでお気軽に。※正宗への勧誘目的ではありません。sokadamedasi@gmail.com

 

▼一日「イチ押し」お願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

 

御講拝読御書研鑽(2024年4月・諫暁八幡抄 )

日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり

今月は大聖人の立宗の月にちなんで『諫暁八幡抄 』の御文を御講にて拝読しました。本抄は弘安3年12月に身延において認めれらた御書で総本山大石寺に御真筆があります。日顕上人は御真蹟の末尾に「建武第三丙子六月六日読誦し奉り畢んぬ日道判」 と、日道上人の御筆跡で認められていることを示されたあと、「この書き入れは、御書を心肝に染めよ、との日興上人の指南を基もといとして御書の拝読が種々の形で行われたことを知る証左となる」 (昭和57年御霊宝虫払大法会御書講の砌)と御指南されています。さて今回拝読の御文は法門的な内容ではないので「読めば分かる」という御文ですが、このように「読めば分かる」御文こそどう読むか何を感じるかを問われるわけです。御文の趣旨としては建長5年の立宗宣言から28年大聖人は他事なく一切衆生に南無妙法蓮華経を弘通してきたのは慈悲であるということですが、慈悲には衆生縁の慈悲(小慈悲)、法縁慈悲(中慈悲)、無縁慈悲(大慈悲)と三種類あります。このうちの大慈悲は仏の慈悲です。今回の御文に書かれている「他事なく折伏をする」という大聖人の御振舞いこそが御本仏の大慈悲です。「他事なく」とは自分のことなど思わないでということです。「不惜身命」ですね。我々凡夫にはこの他事のない(自分都合を挟まない)信心はできないのです。むしろ自分の事が中心です。折伏をするにしても心のどこかで自分の功徳を期待してまう。いやむしろ自分の功徳の為に折伏をする。だから願いや望みがなければ折伏しない。もちろん自分が幸福になるための信心であり大聖人も我々が幸福になることを望まれていますし、何よりも我々凡夫は大慈悲を持ち合わせていませんから自分の願いを叶えるために信心をすることは間違っていません。しかし日蓮大聖人の弟子檀那としてはそれでは余りにも情けないし三宝に対して報恩感謝がありません。とはいっても大慈悲はないし・・ではどうべきかという事を日寛上人は『観心本尊文段』で「自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり」とご教授して下っています。自分事でもなんでも理由の如何を問わず「折伏成就したい」と唱題行に励むことです。唱題行に励む時に入我我入の法義によって自分に御本仏の大慈悲が顕れるのですから。日如猊下や御住職が折伏を実践するにあたって大切なのは唱題であると重ねて御指南されるのは慈悲行である折伏を成就するためには御本仏の大慈悲の仏力を我が身に顕現させることが一番の要だからです。私もまだまだ折伏をしたい友人知人が大勢いますから日々の唱題行に精進して折伏成就できるように頑張りたいと思っています。

創価・顕正からの退会・正宗への移籍のご相談はメールでお気軽に。※正宗への勧誘目的ではありません。sokadamedasi@gmail.com

 

▼一日「イチ押し」お願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ぶもっく和尚・残念な正信会僧侶の有様

最近では各宗派の僧侶がSNSYouTubeといったネットで様々な活動をしているが、その中に『ぶもっく和尚の法話』というYouTubeチャンネルがある。大石寺や日興上人の話をしたり動画に【鶴丸】が映り込んでいたから閲覧した当初は日蓮正宗の御僧侶が運営しているのかとも思った。でも正宗の御僧侶がYouTubeやっているなんて聞いたことないし正宗では【和尚】という言葉は使わないから変だなぁって思っていたら正体は正信会(任意団体)の僧侶だった(しかも教学部長らしい)ので納得した。このぶもっく和尚だが最初は動画をアップするだけだったのだが収益が上がらないからなのか「有料ファンクラブ会員」の募集を開始した。ファンクラブは3種類の金額設定である。

「レベル1」は月額490円で会員限定の動画が視聴できるそうで「一般公開では話しにくい内容」だそうだ。創価や正宗の批判でもしているのだろうか?

「レベル2」になると非公開動画の他にぶもっく和尚のネット早朝唱題会に参加できるそうで会費もいきなり月額2990円になる。尚、唱題会は週3で朝5時半から30分の模様。夜の方がいいのではないか?と思うが。

最高ランクの「レベル3」はなんと月額6000円で特典はぶもっく和尚の大檀那になれるというだけで「レベル2」の倍額の価格になる。月額6000円も払うならぶもっく和尚の大檀那にならないで正信会に入会して好きな時に好きな金額を供養した方が安上がだろ。まるで詐欺みたいな価格設定だ。一応は「メンバーシップ」と横文字を使ってライトな雰囲気作りを装っているけど要するにこれは今風の「乞食行」「托鉢」でしょ。つまり不特定多数の人から「布施」を受け取るという行為に他ならない。確か正信会の提唱する「正信覚醒運動」とは「祖道(日蓮大聖人・日興上人の教えと信仰)の恢復」と「宗風の刷新」だったと思うが、はてさてこれはどうした事か。日興門流を名乗る正信会のしかも教学部長なら日興門流は「謗施を受けない」謗法厳戒が宗旨であることを知らないはずがなかろう。また日蓮正宗に「布施」という概念はなく全て「戒壇大御本尊への御供養」であり僧侶はその御供養を取り次ぐだけということも知っているだろう。「メンバーシップの会費」だろうと「唱題会への参加料」だろうと何なる名目であっても受戒をしていない信徒以外の人から金銭を受け取るのは紛れもなく「祖道違背」の謗法行為以外の何ものでもない。「正信覚醒運動」などとカッコつけているが背に腹は代えられない、貧すれば鈍するでこんなカタチで稼がないとやっていけいないとは無惨としかいいようがない。それにこの和尚は若そうだが一体どこで出家して何を修行して誰が和尚と認定したのだろうか。正信会はどこの宗派でもない。つまり新興宗教団体だ。新興宗教団体公認の和尚って剃髪して袈裟衣をつけているだけで創価顕正会の幹部と何も変わらないだろ。こんな惨状で「祖道の恢復」をスローガンに正宗を批判するなど烏滸がましいにも程がある。正宗を批判したところで所詮は異流義。逆に破折されるのがオチなのだからそんな暇があったら信徒獲得のために祖道の折伏でもしたらどうか。もっとも信徒に下付する本尊もないのではそれもままならないということか。正信会僧侶は同じ正宗からの離脱コスプレ坊主の創価坊主が羨ましかろう。なにせ創価坊主は何もしないのが仕事で余計なことしなければ創価に食わせてもらえるののだからな(笑)私は正信会については多少は同情しているんだよ。創価坊主と違って池田創価の被害者だから。でも唯授一人血脈を否定し法主上人を誹謗したら完全に異流義なんだわ。ネットで説法して布施をもらうような残念な姿を晒すより頭を下げて正宗に戻って小僧からやり直す方が僧侶としての本分ではないだろうか。今や異流義・正信会は「祖道の恢復」どころか「祖道の壊滅」を企てる池田創価のお仲間だ。哀れとしかいいようがない。この際、池田創価と手を組むか。一時顕正会と手を組んだ正信会僧侶もいたことだし、こちらとしても池田創価の正宗批判は正信会の焼き回しだからまとめて破折できるのでひと手間省けるので助かるというものだ。

創価・顕正からの退会・正宗への移籍のご相談はメールでお気軽に。※正宗への勧誘目的ではありません。sokadamedasi@gmail.com

 

▼一日「イチ押し」お願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

 

 

 

有名僧侶略伝③空海(弘法大師)

空海は774年、四国・讃岐に地方官吏だった佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)の子として生まれました。18歳で大学に入りましたがその2~3年後に山林修行に入り私得度僧として出家しましたが出家後の足取りは不明ですが、804年の32歳の時に最澄と同じ遣唐使船団で正式な僧侶として入唐します。空海がいつ正式に受戒得度したかは不明ですが一説には東大寺戒壇院で具足戒を受けたと言われています。入唐に当たって、最澄が還学生だったの対し空海は留学生でした。そこで最澄とは違い唐の都の長安まで足を延ばし青龍寺密教系第7代祖師の恵果に師事しました。その密教の秘法を学んだ空海は翌805年に恵果から伝法阿闍梨の灌頂を受けます。そして空海密教を日本に広めるために806年に帰国します。809年に太政官の許可を得て帰京した空海は高雄山寺(後の神護寺)に入ります。810年の藤原薬子の変を機に空海嵯峨天皇の支持を受け一気に活動の場を得ます。39歳で高雄山寺で最澄ら145人に灌頂を授ける。43歳(816年)の時に真言密教の山岳道場を作るために高野山の下賜を嵯峨天皇に願い勅許を得て翌年に金剛峯寺の建立に着手し同年9月に空海自身も登山しました。821年には讃岐の満濃池を修築に成功しその後は822年・東大寺真言院建立、823年・平安京の東寺を賜り真言密教専用の道場とし828年に東寺の隣に庶民の学校である綜芸種智院を開設、830年に淳和天皇が諸宗に宗旨を説明するように命じた勅に答えて『秘密曼荼羅十住心論』と『秘蔵宝鑰』を著しました。そして835年に真言宗に年分度者3名の勅許を得ます。この年(835年)の3月に空海は62歳の生涯を閉じ入寂します。空海は荼毘に付されましたが、高野山金剛峯寺奥の院に入定(瞑想状態)し救いを求める衆生の前にいつでも現れるとし四国遍路で「同行二人」と書かれた笠や杖をもつのも弘法大師空海)と二人で行くという意味です。札所や真言宗寺院で唱えられる「南無大師遍照金剛」の「遍照金剛」とは空海の灌頂名(密教僧としての名)です。また弘法大師の大師号は921年に醍醐天皇から贈られました。

 

▼一日「イチ押し」お願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村