「師弟不二」と並んで2大インチキ池田教学といえば、「南無妙法蓮華経は宇宙にリズム」という『妙法宇宙法則論』である。妙法を唱えることは宇宙のリズムと自己の生命のリズムが一致するという「宇宙即我」というような言い方もするがどのように言い回してみたところで南無妙法蓮華経は宇宙のリズム(法則)であるなどど御書のどこにも書いていない池田の邪義である。『妙法宇宙法則論(宇宙即我)』とは、石田次男氏もその著書『内外一致の妙法この在るべからざるも』の中で指摘しているように【梵我一如】の外道義である。【梵我一如】とは、「宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と人間の本質であるアートマン(我)との本体が同一無差別であるという思想」で古代インドの思想であり特にウパニシャッドに基づくバラモン教の中心思想である。また人法一箇の妙法を宇宙全体と捉えることは宇宙=仏という思想でありこれは法身仏である大日如来を立てる真言宗と同じである。そういえば池田の実家は真言宗だ。いずれにせよ日淳上人の「かような考へは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるからでありまして宇宙に遍満する妙法の理が題目であるとするからであります。此れは大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります。即ち法報応三身具足の当躰であらせられ報身中に具し玉ふのであります。妙法の理は天地の間にありましてもそれは理性であります。実際には仏の御智慧のうちにのみ厳然として具はり玉ふのであります。その仏は十方法界に唯御一人在ますだけであります」(日淳上人全集)との御指南こそが南無妙法蓮華経に対する正しい会通である。「南無妙法蓮華経」とは宇宙法則ではなく御本仏の悟りであり、御本仏は宇宙の法則を悟ったのではなく、御本仏の悟りが法界(宇宙)に遍満しているのである。つまり池田の浅識教学は真逆の解釈なのである。事の一念三千たる南無妙法蓮華経は御本仏の智慧(報身)そのものでありそれ以外の所にはない。御本仏を離れて宇宙に妙法が遍満しているというのは外道義なのである。しかし池田創価は破門以降、「妙法宇宙法則論」で「南無妙法蓮華経」の法の側面だけを強調し、人(仏)の側面を隠し続けた。現在の創価教義を見れば、それは戒壇大御本尊を棄て自分達(自分こそ)仏であるという邪義を打ち立てるための布石だったと思われる。現在の創価員の多くは御本尊は宇宙の法則を大聖人が曼荼羅に書き顕したものだと思っているがそんなことは御書には微塵も書かれていない池田の邪義なのだ。そしてその池田の邪義を根本に御書を読むから正しく御書を解釈できない。まさに不相伝の我見読みが創価の御書の読み方なのである。そして創価は大聖人の仏法は全て御書に書いてあるなどと言うが御書に書いていない宇宙の法則(リズム)などという事を主張するという自語相違を犯している。要は彼等の教義・教学は御書でなく大作が根本なのである。阿呆というか無惨というか・・創価員の教学が法華講員の物笑いの種になるのは池田の愚かな教学を学ぶからだ。いずれにせよ、題目を上げても宇宙のリズムや法則に合致することはない。法(理)は仮有であって実有ではないからである。宇宙のリズムに合致するのではなく御本仏の境智に冥合することが唱題修行の目的である。その為には正しい御本尊に相対しることが絶対条件である。従って仮有であり理である宇宙の法則を図顕しただけらしい創価本尊に何千万遍題目を上げても無意味なのである。
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