創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

波田地教学・八重の相対を嗤う。

波田地氏の動画で「八重の相対」という波田地教学の根本教学を披露していたので今日はこの「八重の相対」なる軽学を破折しておく。といってもこんなモノとっくの昔に破折されまくっている軽学ではあるがいまだに波田地氏が未練たらしく口にしている事とこの波田地軽学をいまだに使用して正宗を破折しているつもりでいる学会員も多いので改めて嗤っておこうと思う。波田地氏の「八重の相対」というのは大聖人の「五重の相対」の上にさらに波田地氏の提案する、「6.宗創相対7.池創相対8.師弟の道・師弟不二の道相対」という3つを加えたものをいう。まぁ7と8は創価の中の話なので勝手にしてくれということなんだが、創価活動民が使うのは6の「宗創相対」と言うやつである。とその前に波田地氏は動画の中で大聖人の「五重の相対」の種脱相対を「大聖人が本仏であること」なんて説明しているがこれは完全に話のすり替えであることを指摘しておく。五重の相対というのは「教法」の教判であって「教主」の教判ではない。宗教の五綱のなかでは「教を知る」の中の教判なのである。なので「種脱相対」を説明するにあたって「大聖人が本仏である」ということと言う説明は間違っている。勿論「下種仏法の教主」は大聖人であるあることは間違いないが五重の相対の説明としては間違だ。もっとも波田地氏の場合はミスリードするためにわざとこのように話をすり替えたのだろう。なぜなら彼の言う「宗創相対」とは大聖人と大作を相対させているので5番目の「種脱相対」の結論が「大聖人」という「人」でないと話が続かないわけだ。まぁこれだけで波田地軽学がいかにデタラメかわかるというものだ。

さて、問題の「宗創相対」とは何かと言えば、「観心本尊抄」の

◆当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成つて愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す

この御文を衣文としてさらに日寛上人の文段の

◇答う、折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く「法華折体、破権門理」の如し。蓮祖の修行これなり。二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く「正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし」等云云。仙予国王等これなり。今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり

を傍証に置いて、大作と大聖人は同じ地涌の菩薩だが大作は「折伏」の賢王で大聖人は「摂受」だから「折伏」をする大作の方が偉いというわけである。この両御文の件については過去記事に譲るが、

http://sokadamedasi.blog27.fc2.com/?preview_entry=&editor=&key=edb442300ea65ad305a50e3ce92b9c4845e5f5d04a4e745fa6152d9d0602f4a1&t=1620094165http://

まずこのオジさんは種脱相対の時に「大聖人が本仏」と説明しておきながらここではいつの間に大聖人が地涌の菩薩になっていて二度目の話のすり替えをしている。ここまで色々と話をすり替えないと成立しないのが波田地軽学の惨めなところなんだが、その上このオジサンは地涌の菩薩に「総別」があることも多分八重の相対を編み出したときには知らなかったのだろうと思われる。知っていれば彼の言う「宗創相対」の義なんて言う者は成立しない。まぁ波田地軽学を使う現役創価民は絶対に分かっていないと思うので説明しておく。日寛上人の「 開目抄下愚記」の中のご指南に、

◇問う、当流口伝に総体の地涌、別体の地涌という。証文は如何。(中略)「或る時は一人に此の四義を具す」とは、即ちこれ総体の地涌なり。当に知るべし、在世はこれ別体の地涌なり、末法はこれ総体の地涌なり。故に「或る時」という。或る時というは、即ち末法を指す。

とある。末法地涌の菩薩とは総体の地涌であり総体の地涌とは、

◆唯題目の五字なり授与とは上行菩薩に授与するなり之とは妙法蓮華経なり(御義口伝巻下)

◆此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり(三大秘法禀承事)

との御文などにあるように三大秘法を相承さてた日蓮大聖人の事であり当然その本地はご本仏なのである。分かりやすく言うと「総体の地涌」とは「法体である三大秘法」を所持している方を指し日蓮大聖人お一人を言う。対し「別体の地涌」とはあくまでも「本仏」である「総体の地涌」の弟子分であり「別体の地涌」は「法体を所持していない」故に「化義の折伏」なのである。上記の「観心本尊抄」の御文は「総体の地涌」のことを言ってるのではなく「別体の地涌」の事を述べているのである。そもそも「総体の地涌」である大聖人様はすでのその「法体」を三大秘法の大御本尊として御建立されているのだから再び娑婆世界に応身となって生まれてくることはない。というか大御本尊こそ生身の日蓮大聖人であるのだから再誕なんてありえないのである。再誕というのであれば今娑婆世界は「無仏」となってしまうではないか。「地涌の義」の総別も弁えずに。「総体の地涌」(ご本仏)と「別体の地涌」の凡夫を相対することがすでに教学として破たんしているのである。ていうかそもそも「総体の地涌」である大聖人(大御本尊)を捨てた大作や創価民は「地涌の菩薩」ですらないだろう。

日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか(諸法実相抄)

◆今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり

との御文をよく読みなさい。大聖人と「同意」であり、大聖人の「流類」の人の事を「地涌の菩薩」というのである。正法護持の僧侶を守るのは「賢王」というのである。大御本尊をすて唯受一人血脈を否定した大作ごときがどこが「地涌の菩薩」であるのか?そしてそんな大作の弟子である波田地氏ごときに大聖人仏法が何たるかなど理解できるはずがないであろう。なにが「八重の相対」だよ。「八重に相当イタイ」のが波田地軽学の実態だ。よく恥ずかしくなくこんな痴論をYouTubeに公開できるなぁと思うが、その厚顔無恥さこそ大作の弟子を名乗る有資格者であろうと察する次第である。


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